六韜を読む · 01
『六韜』はなぜ「天下は一人の天下に非ず」と説くのか
兵法書『六韜』は、陣立てからではなく問答から始まります。天下を得る者と失う者を分けるのは、兵力ではありません。利を人と同じくするか、独り占めにするか。その一点です。
今回の一節の新規現代語訳
天下は、一人の天下ではありません。天下の天下です。
天下の利を人びとと同じくする者は、天下を得ます。
天下の利を独り占めにする者は、天下を失います。
原文
天下非一人之天下、乃天下之天下也。
同天下之利者、則得天下。
擅天下之利者、則失天下。
語句の注
- 天下
空の下すべて、という語です。ここでは領土そのものより、統治の及ぶ範囲と、そこに住む人びとを指します。 - 同(どう)
同じくすること。利益を分けるという意味ではなく、同じ側に立つという含みがあります。 - 擅(せん)
ほしいままにすること。自分ひとりの判断で扱い、他を関与させないことを指します。 - 利
もうけだけを指す語ではありません。天の時、地の産物など、人が生きるために要るものを含みます。 - 太公望
周の文王・武王に仕えたとされる人物。呂尚、太公とも呼ばれます。『六韜』は、この人物と文王・武王の問答という形式をとります。
釣りをする老人と、王の問い
『六韜』は、戦い方の説明から始まりません。文王が狩りに出る場面から始まります。占いは「渭水の北で大きな獲物を得る」と告げました。得たのは獣ではありません。渭水のほとりで釣りをする老人でした。
文王はこの老人に問いかけます。老人は釣りの話から始めます。糸が細ければ小さな魚が食いつく。糸が太く餌が豊かなら大きな魚が食いつく。魚が餌を食えば糸に引かれる。人が禄を受ければ君に従う。そう語ります。
比喩はさらに広がります。家を用いて国を取り、国を用いて天下を取る。ここまでは、統治を釣りの技術になぞらえた話です。文王は続けて問います。どうすれば天下は帰服するのか。その答えが、今回の一節です。
順序が大事です。技術の話が先にあり、その後に原則が置かれています。原則だけが単独で語られているのではありません。
「非ず」で始まる答え
答えは否定から入ります。天下は一人の天下ではない。まず、想定されがちな理解を退けています。
そのうえで言い換えが来ます。天下の天下である。同じ語を二度使い、所有者の位置に「天下」自身を置きます。誰か別の持ち主を立てるのではありません。
この構文には注意が要ります。統治者は不要だ、とは書かれていません。文王は君主であり、この後も君主のままです。太公望は君主を退けていません。君主が何を私物にできるかを限っているのです。
限られているのは、地位ではありません。利です。天下という場そのものを、自分の財産として扱えるか。答えは、扱えない、となります。
同と擅——対になる二字
次の二句は、形がそろっています。「同天下之利者、則得天下」と「擅天下之利者、則失天下」。動詞だけが入れ替わります。
同は、同じくすること。擅は、ほしいままにすること。この二字が対になり、得と失を分けます。分岐点は一つだけです。
ここで注意したいのは、「同」が分配とは書かれていない点です。何をどれだけ配るか、割合の話は出てきません。利をめぐって同じ側に立つのか、反対側に立つのか。位置の問題として語られています。
また、擅の側が悪だと断じる言葉もありません。書かれているのは結果です。独り占めにすれば失う。道徳の非難ではなく、条件の指摘という形になっています。
この違いは小さく見えて、読みを変えます。善政を勧める訓戒として読むと、「よい王であれ」という話に縮みます。原文はもう少し冷たい。天下を保ちたいなら、この条件を満たすほかない、という書き方です。
得ると失うは、同じ天秤の両側
二句は、得る話と失う話に分かれています。しかし別々の教えではありません。
同じ条件を、裏返しにして二度述べています。満たせば得る。満たさなければ失う。中間はありません。少し独占すれば少し失う、とも書かれていません。
この言い切りには、前提があります。天下は、もともと一人のものではない。だから独占は、他人のものを取る行為になります。取れば反発が返る。返れば失う。そういう流れが想定されています。
逆から見ると、得るとは奪うことではありません。もともと一人のものでないものを、一人のものにしないままにしておく。それが得る条件になります。奇妙に聞こえますが、原文の順序どおりに読むとそうなります。
兵法書の最初が政治から始まる
『六韜』は、六つの韜に分かれます。文韜、武韜、龍韜、虎韜、豹韜、犬韜。後半には、行軍、陣立て、火攻め、車戦、騎兵といった具体的な項目が並びます。
その最初に置かれているのが文韜であり、文韜の最初が「文師」です。つまり、兵器や隊形の前に、人が誰につくかという話が来ます。
この配置自体が、一つの主張になっています。戦いは、始まる前にかなりの部分が決まっている。誰が味方につくか、誰が離れるか。それは陣中ではなく、日ごろの利の扱いで決まる。そう読める構成です。
ただし、『六韜』が戦術を軽く見ているとは言えません。全六十篇の大半は実務的な内容です。政治を先に置いたことと、戦術を不要としたことは別です。
この一節から言えないこと
第一に、『六韜』が民主的な政治を説いたとは言えません。天下の天下である、という句は、統治権の所在を人民に移す主張ではありません。君主が利を独占しないという条件を述べています。
第二に、太公望が実際にこう語ったとも言えません。『六韜』の成立年代には幅があり、太公望その人の言葉として確かめる方法はありません。問答という形式をとった書物である、というところまでが言えます。
第三に、この三句だけで『六韜』の全体像は決められません。続く部分では、仁、徳、義、道という四つの語で条件が言い直されます。本記事が引用したのは、その前段だけです。
第四に、現代の組織運営にそのまま当てはめることもできません。似た教訓を読み取る人はいるでしょう。ただし、ここで前提されているのは古代の君主と臣下の関係です。文脈を外すと、言葉だけが標語になります。
三句で足りる理由
この一節は短い。三十五字しかありません。それでも独立して読めます。
否定、言い換え、条件、その裏返し。この四つが順に並び、外から補う説明を必要としません。だから引用されやすく、後世にもよく引かれてきました。
短さには落とし穴もあります。前段の釣りの比喩を落とすと、この句は突然の理想論に見えます。実際には、人が何に引かれて動くかという現実的な観察の後に置かれています。糸と餌の話があるから、利の話につながります。
三句だけを掲げるなら、その前に何があったかを覚えておく必要があります。理想を語る前に、太公望は人が禄で動くと述べていました。二つは矛盾しません。同じ観察の、別の角度です。
出典
『六韜』文韜「文師」。原文は中國哲學書電子化計劃所収の『六韜』により確認しました。同サイトは『四部叢刊初編』本『六韜、吳子、司馬法』を電子底本として示します。和刻本には、閑室元佶校『六韜』巻第一〜六(大坂・森本文金堂、安政二年)があります。早稲田大学図書館蔵、請求記号ロ13 03072。校訂者として名を掲げる閑室元佶は、慶長年間に徳川家康の命で伏見版の印行に関わったとされる僧です。