六韜を読む · 03

天下の目・耳・心で知る——『六韜』大礼

一人の君主が、遠い土地の出来事まで自分で確かめることはできません。『六韜』は「明」を問われると、天下の人々が見たこと、聞いたこと、考えたことを集めます。

今回の一節の新規現代語訳

目には、はっきり見ることが大切です。耳には、よく聞き取ることが大切です。心には、よく考える知恵が大切です。
天下の人々の目で見れば、見えないものはありません。天下の人々の耳で聞けば、聞こえないものはありません。
天下の人々の心で考えれば、知らないものはありません。車輪の輻が中心へ集まるように、すべてがともに進んで来れば、君主の明は覆われません。

『六韜』文韜、第四「大礼」の末尾です。文王が君主の地位と聞き方を順に問い、最後に「君主の明とは何か」と尋ねます。太公は目・耳・心の三つで答え、篇を結びます。

原文

目貴明,耳貴聰,心貴智。
以天下之目視,則無不見也。以天下之耳聽,則無不聞也。
以天下之心慮,則無不知也。輻湊並進,則明不蔽矣。

『六韜』文韜、第四「大礼」末尾の三行です。句読点を除いて五十一字あります。汪桓訂正『標題武経七書全文』巻七に当たる箇所で、末尾の「輻湊」は車輪の輻が中心へ集まる姿をいいます。

語句の注


  • よく見えることから、物事を正しく知る力まで含む語です。篇では君主に必要な明察を問います。

  • 音をよく聞き分けることです。聞いた内容をすべて信じる、という意味ではありません。
  • 天下
    君主が治めるべき広い世界を指します。全員が直接発言する制度を述べた語ではありません。

  • 心にかけて考えることです。見る、聞くに続き、判断する働きを数えます。
  • 輻湊
    車輪の輻が轂へ集まることです。各地の見聞と考えが中心へ届く姿に重ねています。

「明」は一人の眼力では足りない

「大礼」では、文王が君主のあり方を順に尋ねます。君臣の礼。君主の位置。人の話を聞く態度。そして最後が「明」です。

明るく照らす力ではありません。何が起きているかを知り、取り違えない力です。

君主は中央にいます。遠い村の作柄も、役人の振る舞いも、自分の目では見られません。報告を待つほかありません。

そこで太公は、まず目・耳・心を挙げます。目は明。耳は聡。心は智です。

それでも三つは、一人の体に収まりません。すぐに「天下の目」「天下の耳」「天下の心」へ広がります。本人が優れているだけでは、届かない場所が残るからです。

見る、聞く、考える

三つを分けた点が大切です。見ることと聞くことは同じではありません。考えることも別です。

誰かが現場を見ます。別の誰かが声や評判を聞きます。その知らせを受けた人が、原因や結果を考えます。

見た事実があっても、中央へ届かなければ君主は知りません。報告が届いても、意味を取り違えれば判断を誤ります。

情報の数だけを増やしても足りません。見る人、伝える人、考える人が要ります。太公は受け取る働きと考える働きを分けています。

短い三行です。けれども、知らない原因を一つにまとめません。見えない。聞こえない。考えが及ばない。それぞれに道を開きます。

「天下の目」で何を見るのか

君主が自分で歩ける範囲は狭いものです。宮殿から山野の様子は分かりません。道が壊れたか。水が足りないか。役人が人を苦しめていないか。現地の目が必要です。

目を借りるとは、君主が見たつもりになることではありません。見た人の言葉を受け取ることです。

ここには弱点もあります。見た人が隠すかもしれません。見間違えるかもしれません。自分に都合のよい所だけ語ることもあります。

今回の三行は、確かめ方まで書きません。二人の話を比べるのか。証拠を求めるのか。役人を入れ替えるのか。手順は不明です。

それでも出発点は明らかです。君主一人の視界を、天下の範囲と取り違えてはなりません。

「天下の耳」は門を閉ざさない

耳には、目で見に行けない場所から話が届きます。遠方の報告。人々の訴え。家臣の進言。敵味方の評判。声の形はさまざまです。

「大礼」の一つ前の問答では、聞き方を扱います。軽々しく許してはいけない。逆らって拒んでもいけない。そう戒めます。

何でも承知すれば、守りを失います。何でも退ければ、道が塞がります。どちらも危うい。

よく聞くことと、すぐ信じることは別です。まず門を開けます。その後で比べます。

都合の悪い報告だけを退ければ、やがて良い話しか来なくなるでしょう。耳は付いていても、聞こえません。太公が恐れる「蔽」は、そうした状態にも重なります。

「天下の心」まで集める

目と耳だけなら、情報収集の話に見えます。太公は心も加えました。他人の考えまで必要だとします。

人は、見聞きしたことをそのまま並べるだけではありません。前の出来事と比べます。先の変化を考えます。自分の土地で長く暮らした経験も使います。

君主が知らない仕事もあります。農民は作物を知ります。職人は道具を知ります。土地の役人は往来を知ります。それぞれの考えには、別の根があります。

ただし、天下の人々が同じ結論を出すとは書かれていません。意見は割れます。利害も違います。

多くの心を集めることは、全員に従うことではありません。考える材料を狭めないことです。最後に決める責任は、君主の側に残ります。

車輪の中心へ集まる

末尾では「輻湊」といいます。車輪の輻が轂へ集まる姿です。

一本ずつは別の方向へ伸びています。それでも中心ではつながります。見聞も同じです。各地で得たものが中央へ届いて初めて、判断に加えられます。

集まらなければ散ったままです。地方の人が知っていても、君主は知らない。家臣が気づいていても、口を閉ざせば届かない。

反対に、中心だけあっても車輪になりません。轂が立派でも、輻がなければ外と結べません。

君主の明を、一人の輝きとして褒める話ではないのです。道がつながり、知らせと考えが来る。その状態で「明は蔽われず」となります。

集まることと、一つになること

輻は中心へ集まります。しかし同じ一本にはなりません。向きも位置も違います。

各地の報告にも差があります。豊作の土地があれば、不作の土地もあります。役人を慕う声もあれば、苦情もあります。どちらかだけでは全体を誤ります。

君主の気に入る答えへそろえれば、集めた意味が薄れます。違いを残したまま受け取る必要があります。

三行には、反対意見を守る制度まではありません。ですが、多くの目・耳・心を用いるなら、違う知らせが来るのは当然です。

一致は結果かもしれません。入口ではありません。まず届くこと。そこから始まります。

兵書の冒頭で政治を読む

『六韜』は武経七書の一つです。兵の動かし方や陣の話を期待する人も多いでしょう。

ところが文韜では、民の暮らし、人材の選び方、君臣の関係を先に扱います。戦場だけを切り離しません。

命令を出す前に、何を知っているかが問題になります。知る前には、誰の話が届くかが問題になります。

中央が現実から離れれば、兵の数をそろえても判断を誤ります。危機が来てから急に耳を開いても、信頼できる道はすぐにできません。

平時の聞き方が、非常時の判断を支えます。文韜に置かれた理由を考えると、軍事技術より前に整えるものが分かります。

知ることと、決めること

天下の目・耳・心を用いれば、何でも正しく決められるのでしょうか。三行はそこまで約束しません。

知らせが多すぎれば、迷うこともあります。互いに矛盾する報告も来ます。意見を述べる人が、自分の利益を守ろうとする場合もあります。

集めた後には、選び、比べ、確かめる仕事が残ります。心に智を求めたのは、そのためでもあるでしょう。

自分の考えを捨てて、他人へ丸投げする話ではありません。一人の考えだけで塞がない。その上で決めます。

広く聞くことと、責任を負うことは両立します。むしろ多くを聞いた後だからこそ、決定の理由を問われます。

近い声だけでは天下にならない

君主の近くには、いつも同じ人が集まりやすいものです。顔を合わせます。言葉の癖も分かります。信頼も生まれます。

その便利さには偏りがあります。近くにいる人が、遠い土地の暮らしまで知っているとは限りません。中央で正しい話が、地方でも正しいとは限りません。

遠い声は届くまでに時間がかかります。途中で短くされることもあります。伝える人が変わるたび、言葉も変わるでしょう。

だからこそ、道を一本に絞るのは危険です。同じ役所。同じ身分。同じ土地。その人々だけで天下を語れば、見落とす場所が増えます。

太公は、近臣の目や重臣の耳とは言いません。「天下」と広く取ります。身近な者を退ける話ではありません。近い声だけで壁を作らないのです。

遠方の話が届いたら、近くの人は確かめる役を負えます。反対の報告が来たら、理由を調べられます。距離の違う見聞を重ねると、中央の思い込みを疑えます。

不都合な知らせを受け取れるか

良い知らせは届きやすいものです。君主が喜びます。報告した人も褒められるかもしれません。

悪い知らせは違います。失敗。飢え。遅れ。役人の不正。語る人まで責められるなら、口を閉ざすでしょう。

すると、現地では皆が知っているのに、中央だけが知らない状態になります。目も耳もあります。それでも使えません。

「明不蔽」の反対は、君主の頭が悪いことだけではありません。周りの人が覆う場合もあります。君主自身が覆わせる場合もあります。

嫌な話をした人を罰すれば、次から嫌な話は来ません。誤りを認めない人の前では、考えの違いも消えます。静かな宮殿が、よく治まった天下とは限りません。

今回の三行は、告発者の保護や罰の規則を定めません。そこまで読むことはできません。ただ、天下の耳を用いるなら、不快な声も入口で止めないことが要ります。

明を守るのは、耳に心地よい知らせではありません。事実に近い知らせです。両者を分けられるか。君主の智も試されます。

三行から決められないこと

第一に、文王と太公が実際に交わした言葉の記録とは断定できません。『六韜』は太公望に仮託される兵書です。

第二に、民が政治へ参加する具体的な制度は分かりません。選挙、会議、上申の手順は出てきません。

第三に、多数の意見が常に正しいとは書かれていません。同じ誤りが広がることもあります。

第四に、君主がどの報告を採るべきかは不明です。証拠の調べ方もありません。

第五に、現代の会社や組織へそのまま当てはめることはできません。古代の君主へ向けた問答です。時代と権力の形を外せば、別の話になります。

言えるのは限られます。君主の明は、自分一人の目・耳・心だけでは足りない。天下から届く道を持つ必要がある。それが三行の中心です。

覆われないための条件

君主は高い所にいます。高いから遠くまで見える、とは限りません。周りが囲めば、近くの声しか届かなくなります。

太公は、明君を孤独な天才として描きません。天下の目で見ます。天下の耳で聞きます。天下の心で考えます。

頼る相手が多いほど、弱い君主になるわけでもありません。自分の限界を知り、違う場所の見聞を受け取れる。そこに別の強さがあります。

最後は「明不蔽」です。明が覆われない。最初から何でも知っているのではありません。覆いを作らないのです。

目、耳、心。三つの道を開く。遠い所から中心へ、輻のようにつなぐ。『六韜』の明は、そこから始まります。

出典

『六韜』文韜、第四「大礼」末尾。原文は『四部叢刊初編』所収本に連なる通行本文により確認した。和刻本には、閑室元佶校『六韜』巻一〜六(大坂・森本文金堂、安政二年)がある。早稲田大学図書館蔵、請求記号ロ13 03072。