李衛公問対を読む · 01

奇と正はいつ分かれるのか——『李衛公問対』が読む孫子

『李衛公問対』は、奇と正を最初から固定してよいのかという問題を、教練と実戦に分けて考えます。二つに分けて教えた後、なぜその区別を崩すのでしょうか。上巻の問答をたどります。

今回の一節の新規現代語訳

教練が終わり、兵たちがこちらの方法を身につけたなら、その後は羊の群れを追うように、将の指す方へ動かせます。そこで誰が、奇と正の違いを分けられるでしょうか。
孫武のいう「相手には形を現させ、こちらは形を持たない」とは、奇と正を用いる行き着くところです。
だから、あらかじめ分けるのは教練のためです。時に臨んで変化をさばく方法は、数え尽くせません。

『李衛公問対』上巻、太宗が奇正をあらかじめ分けるのか、時に臨んで定めるのかと尋ねる第四の問答です。曹公『新書』の配分を大略とし、旗と太鼓を使った教戦を論じた後に置かれます。

原文

教閱既成,眾知吾法,然後如驅羣羊,由將所指,孰分奇正之別哉?
孫武所謂『形人而我無形』,此乃奇正之極致。
是以,素分者,教閱也;臨時制變者,不可勝窮也。

『李衛公問対』上巻、奇正を論じる問答の末尾三行。句読点を除いて六十字です。汪桓訂正『標題武経七書全文』巻四に対応する箇所があります。

語句の注

  • 奇(き)
    相手の予想から外れる側面です。特定の部隊に初めから貼られた名前とは限りません。
  • 正(せい)
    正面、通常、定型に当たる側面です。「正しい側」とだけ読めば、奇との入れ替わりを捉えにくくなります。
  • 教閲(きょうえつ)
    兵を教え、動きを点検することです。ここでは奇と正を前もって分ける場として挙げられます。
  • 形人而我無形
    相手には形を取らせ、こちらは相手から形を定められない状態にあることです。『孫子』虚実篇の句を引いています。
  • 臨時制変
    その時の状況に臨んで変化を扱うことです。決めておいた型を無視する話ではありません。

先に問われたのは「いつ分けるか」

太宗の問いは短いものです。奇と正は、平素から分けておくのか。それとも時に臨んで定めるのか。二者択一に見えます。

李靖の答えとして書かれた部分は、すぐに一方を選びません。まず曹公の『新書』を引きます。自軍が敵の二倍なら、一術を正、一術を奇とする。五倍なら、三術を正、二術を奇とする。数で割り振る方法です。

ただし、そこで終わりません。「此れ大略を言うのみ」と続きます。大づかみな説明にすぎない、という扱いです。人数の比率なら教えやすい。図にもできます。けれども、それだけでは奇正の働きを言い尽くせません。

ここが出発点です。最初から数の説を退けるのではありません。使う場所を限ります。

稽古では二つに分ける

引用の少し前では、兵と副将がまだ法や命令に慣れていない場合を考えています。その段階では、二つの術に分けなければなりません。旗と太鼓を見分け、分かれたり集まったりする動きを順に習います。

初めて習う人に、境目のない変化をそのまま渡しても動けません。どちらが正で、どちらが奇なのか。まず区別します。合図も要ります。反復も欠かせません。

「素分者、教閲也」とは、その役目を一言で言ったものです。前もって分けるのは教練のため。分けること自体が誤りなのではありません。兵が同じ合図で動くには、はっきりした区別が必要です。

ただし教練は、実戦を小さく写しただけのものではありません。習うために動きを切り分けます。教えやすい単位にするのです。その切り分けを、戦場でも永遠に守るとは書かれていません。

合図が身についた後の話

「教閲既成」とあるので、話は教練を終えた後へ進みます。兵たちは法を知っています。旗が動けば何をするか。太鼓が鳴ればどこへ向かうか。いちいち説明を受けなくても動ける段階です。

そこで初めて、将の指す方へまとまって進めます。正として習った動きが、相手からは奇に見えるかもしれません。奇として置いた部隊が、正面を受け持つ場合もあります。役割は動きます。

大切なのは、名前を交換することではありません。「今から正を奇と呼ぶ」と言い換えるだけなら、相手にも読まれます。必要なのは、状況に応じて役割が変わることです。

そのための土台は消えません。教練があります。命令があります。共通の合図もあります。乱れてよい、という話ではないのです。

「群羊」のたとえをどう読むか

「羊の群れを追うように」という言い方には、現代の読者なら引っかかるかもしれません。兵を考えのない群れとして軽んじているようにも読めます。

しかし問答の焦点は、兵一人ひとりの知性ではありません。大勢が一つの指図に応じられるかどうかです。将が方向を変えるたび、命令の意味を最初から説明していては間に合いません。

訓練を終えた兵は、合図を共有しています。だから同時に向きを変えられます。たとえが受け持つのは、そのまとまりです。羊そのものを理想とする話ではありません。

同時に、将だけが自由ならよいとも読めません。兵が法を知っていることが先に置かれています。知らない兵を無理に動かす場面ではないのです。共有した稽古がある。そこから素早い変化へ移ります。

孫武の二つの句をつなぐ

この問答では、『孫子』から二つの箇所が使われます。先に引かれるのは、奇と正の変化は尽くせず、互いに生まれることは端のない輪のようだ、という勢篇の句です。固定できないという説明に合います。

引用した三行では、虚実篇の「形人而我無形」が来ます。相手には形を取らせ、こちらは形を捉えられない。奇正の変化を、相手から何が読めるかという問題へつないでいます。

二つの句を並べると、ただ奇抜な手を次々に出す話では収まりません。相手がこちらの役割を決めつけられない状態が要ります。正面に見えるものが正面のままか。脇に置かれたものが奇のままか。相手は確定できません。

だから「無形」は、姿が消えることではありません。隊列も人も存在します。ただ、相手の予測の中で一つの形に固められないのです。

数で分ける方法は、なぜ「大略」なのか

曹公『新書』から引かれた配分は、具体的です。自軍が二、敵が一なら、一術ずつを正と奇にする。自軍が五なら、三術と二術に分ける。教える側にとって扱いやすい数字です。

数字には利点があります。何人をどちらへ回すか。どの隊を先に習わせるか。稽古の始めには、曖昧さを減らせます。兵も、自分がいま何を練習しているのか理解しやすくなります。

それでも「大略」にとどまります。相手の配置、道の広さ、地形、進退の時機まで、二対一や五対一という比率だけでは決まりません。同じ人数でも、相手が何を予想したかによって役割が変わるからです。

問答は、数えることを無駄だとは言いません。数だけで根本に届いたと思わないように戒めます。配分は入口です。入口を通った後には、旗や太鼓を使った分合の稽古があります。さらに、その稽古で身につけた動きを時に応じて変える段階があります。

説明には段階があるのです。まず数で分ける。次に合図で動く。そして、相手に役割を読ませないところまで進む。「大略」という二字によって、配分法は捨てられず、最終回答でもなくなります。

正が奇へ移る時、相手には何が見えるか

奇と正の境目は、こちらだけで決めるものではありません。相手が何を通常と考え、何を予想外と受け取るか。それによって同じ動きの働きも変わります。

たとえば、後から出る部隊をいつも奇と呼ぶなら、相手は後発の動きを待つでしょう。脇からの攻撃を奇と決めれば、脇を警戒します。名前を固定した時点で、意外さは薄れます。

逆に、相手が正面の主力だと思った動きが、別の部隊を動かすきっかけになる場合もあります。見えている正が、結果として奇の働きを助けるのです。正と奇は、別々の箱に収まったままではありません。

だから「形人而我無形」が重要になります。相手の配置や反応は読める。こちらの役割分担は読ませない。姿を隠すのではなく、予測を一つに定めさせないことです。

もちろん、相手の心を完全に読めるとは書かれていません。問答が語るのは、こちらの動きを固定した型として渡さないことです。教練で得た共通動作があるからこそ、指す方向を変えても全体がついていけます。

奇が正へ移り、正が奇へ移る瞬間を、時計の針で指定することはできません。相手との関係が変わる時、役割も変わります。その変化を「不可勝窮」、尽くし切れないと結んでいます。

奇を「奇策」に閉じ込めない

奇と聞くと、思いがけない秘策や奇襲だけを考えがちです。横から攻める。後から出す。伏兵を置く。たしかに、そうした動きが奇になる場合はあります。

しかし上巻の次の問答では、「奇兵は傍らから撃つ」という説明が取り上げられます。李靖の答えとして置かれる文は、脇撃ちや先後だけで縛ることを退けます。大勢が合するところを正とし、将が自ら出すところを奇とする。そこにも固定した方向はありません。

横から出れば、いつでも奇になるわけではありません。相手が待ち構えていれば、もう意外ではないでしょう。反対に、正面から来ると相手が決めた動きが、別の働きを帯びることもあります。

奇正は部隊の戸籍ではありません。置かれた関係の中で変わります。『李衛公問対』は、その読み方を教練の話から組み立てています。

三行から断定できないこと

まず、奇正についての中国兵学全体を、この六十字だけでまとめることはできません。語の使い方は書物や注釈によって異なります。ここで読めるのは、『李衛公問対』上巻に置かれた一つの議論です。

また、唐の太宗と李靖が実際にこの言葉を交わしたとは断定できません。書名は二人の問答という形を取りますが、成立や作者をめぐっては偽作説が有力です。記事では、伝わった本文が何を語るかに範囲を絞ります。

無形だから命令も編成も要らない、とは言えません。むしろ順序は逆です。教練を終え、兵が法を知った後に、形を固定されない動きへ進みます。

奇なら必ず勝てる、とも書かれていません。相手との関係で役割が変わるという話です。成功を保証する呪文ではありません。

分けて学び、分けたままにしない

奇と正を分けることには、はっきりした用途があります。兵を教えるためです。旗と太鼓を覚え、分合を繰り返すためです。最初の区別は必要です。

けれども、学んだ区別に実戦を閉じ込めれば、相手にも次の動きを読まれます。将が時に臨んで変化を扱う時、奇と正は互いの役割へ移ります。数の配分だけでは追いつきません。

学ぶ時には分ける。動く時には固めない。短い三行には、教科書の言葉を現場へ運ぶ時の難しさが書かれています。

『李衛公問対』は『孫子』を繰り返すだけではありません。なぜ二つに分けて教えるのか。いつ、その境目を越えるのか。問い直すことで、古い句を別の角度から読み継いでいます。

出典

『李衛公問対』上巻、奇正をあらかじめ分けるか、時に臨んで定めるかを論じる第四の問答です。和刻本には、汪桓訂正『標題武経七書全文』巻一〜七(大坂・文金堂、弘化三年)があります。『李衛公問対』は巻四に収められています。早稲田大学図書館蔵、請求記号イ13 00931。