『李衛公問対』を読む · 06
城より先に心を攻める——『李衛公問対』の「知彼」と「知己」
城を攻める者には、敵の心を攻める術が要る。城を守る者には、自軍の気を保って時を待つ備えが要る。『李衛公問対』下巻では、攻守の道が「知彼」と「知己」に結び直されています。
現代語訳
城を攻め、敵陣を撃つだけでは足りず、敵の心を攻める術が必ずなければならない。
守る者も、城壁を直して陣を固めるだけでは足りず、必ず自軍の気を保ち、時を待たなければならない。
大きく言えば君主の道であり、小さく言えば将軍の法である。
敵の心を攻めるとは、いわゆる敵を知ることである。自軍の気を守るとは、いわゆる自分を知ることである。
原文
攻其城,擊其陳而已,必有攻其心之術焉。
守者不止完其壁,堅其陣而已,必也守吾氣而有待焉。
大而言之,為君之道;小而言之,為將之法。
夫攻其心者,所謂知彼者也;守吾氣者,所謂知己者也。
語句の注
- 陳
ここでは陣と同じく、兵を並べた形を指します。 - 攻其心
敵の心を攻めることです。引用部分だけでは、説得、威圧、欺きなどの具体策は列挙されていません。 - 守吾気
自軍の気を保つことです。「吾」は語り手個人ではなく、自軍の側を指します。 - 有待
待つべきものがあることです。何もしない停滞ではなく、気を保ちながら時を待つ構えです。 - 知彼・知己
敵を知り、自分を知ることです。『孫子』のよく知られた対句が、攻心と守気へ結びつけられています。
城壁と陣形だけでは話が終わらない
書き出しには、攻城と陣への攻撃が並びます。どちらも目に見える対象です。城壁の高さは測れます。兵の配置も観察できます。そこで打撃を加えれば、成果も損害も数えられるでしょう。
しかし、本文は「而已」でいったん区切ります。それだけ、という言い方です。城を攻め、陣を撃つ。必要な仕事ではあっても、それだけで勝負を説明しきれません。続いて「必有攻其心之術焉」と置かれます。
目は城と陣を見ます。判断すべき相手は人です。短い転換です。
守る側にも二つの仕事がある
次の行では、攻める側と同じ順序で守備が語られます。まず城壁を直す。次に陣を固める。ここまでは外から見える備えです。ところが、それだけでは足りません。
自軍の気を守る必要があります。そして待つ。攻める側が敵の心へ向かうのに対し、守る側は味方の気を失わないようにします。外の壁と内の気。二つがそろって守備になります。
「守吾気」の「守」は大切です。気合を新しく生み出せ、とは書かれていません。すでにある気を損なわず、崩れないように保つのです。包囲が長引く場面を考えれば、壁の補修と同じほど切実な仕事だったはずです。
敵の「心」と自軍の「気」は同じ語ではない
対句は左右対称に見えます。それでも、敵にも味方にも同じ字は使われていません。敵については「心」、自軍については「気」です。
敵の心について考えるとき、対象になるのは判断や意志です。続けるのか、退くのか。援軍を信じているのか、疑っているのか。引用部分に細かな項目はありませんが、少なくとも石垣そのものとは違います。
一方、自軍では「気」が守られます。勇み立つ瞬間だけではありません。恐れ、疲れ、焦り、帰りたい気持ちが重なる中で、まとまりを失わないことまで含みます。前の問答で語られた「朝気鋭」の読みともつながります。気は時計で決まりません。人の状態を確かめる必要があります。
知彼は、敵の内側まで読むこと
最後の行で「攻其心」は「知彼」へ言い換えられます。敵を知るとは、人数や地形を数えるだけではない。敵が何を頼みとし、何を恐れ、いつまで持ちこたえるつもりなのか。そこまで読んで初めて、心を攻める入口に立てます。
ただし、ここから心理操作の技法集を作ることはできません。原文には具体的な手順がないからです。書かれているのは、攻撃対象を城壁だけに限らないという原則です。
範囲を守る必要があります。攻心という二字だけで、後世の策を何でも呼び込むべきではありません。
知己は、強さを誇ることではない
「知己」は「守吾気」と結ばれます。自分を知るというと、能力の棚卸しを思い浮かべるかもしれません。ここではもっと動的です。自軍の気が今どうなっているかを知り、それを保つ働きが求められています。
昨日は耐えられた。今日は同じとは限りません。食糧、睡眠、損害、噂、救援の見込み。人の気は揺れます。だからこそ、知己は一度済ませれば終わる自己評価ではありません。
また、守る側が「気」を口実に無理を重ねれば、知己から遠ざかります。強いと思い込むことと、状態を知ることは別です。本文の並べ方では、知己の働きは気を保って待つことにあります。
待つことは空白ではない
「有待」には、守備の時間が入っています。城壁を直し、陣を固め、自軍の気を守る。そのうえで機会を待ちます。静かな言葉です。しかし中身は多い。
待っている間にも状況は動きます。攻め手は疲れます。補給は減ります。味方にも不安が広がります。守る者が気を保てなければ、城壁が破られる前に判断が崩れるかもしれません。
待つには準備が要ります。ただ立ち止まるのではありません。
二度の「而已」が早合点を止める
第一行と第二行には、よく似た切れ目があります。攻める側には「城を攻め、陣を撃つだけ」と言い、守る側には「壁を直し、陣を固めるだけ」と言います。どちらにも「而已」が入ります。
物理的な仕事を否定しているわけではありません。城を攻めずに攻城戦は進みません。壁を直さなければ守備も続きません。それでも、見える仕事を終えただけで十分だと思うな、と釘を刺しています。
しかも批判は一方だけに向きません。攻め手にも守り手にも不足が起こります。攻め手は城壁に夢中になり、敵の意志を読み落とすかもしれません。守り手は設備を整え、自軍の疲れや不安を見落とすかもしれません。
二度の「而已」を読むと、技術と人間を切り離さない姿勢が分かります。設備は要る。陣形も要る。けれども、最後に動くのは人です。
なぜ君主の道と将軍の法を並べるのか
第三行には、意外に大きな広がりがあります。「大きく言えば君主の道、小さく言えば将軍の法」とされます。攻心と守気は、戦場の一技法に閉じられていません。
君主は国全体の人心と力を扱います。将軍は一軍の判断と気を扱います。規模は違っても、外形だけを整えれば足りるわけではありません。命令に従う人々が何を考え、どれほど耐えられるかを外せないのです。
ここでいう「大」と「小」は、君主が立派で将軍が取るに足りないという評価ではないでしょう。扱う範囲の大小です。君主の道から将軍の法まで、同じ原理が通うと読めます。
『孫子』の知彼知己が攻守の動詞を得る
知彼知己は、あまりにも有名な語です。有名になるほど、標語だけが独り歩きします。「敵と自分を知れ」と言われても、何をすれば知ったことになるのかは残ります。
『李衛公問対』では動詞が加わります。敵については心を攻める。自軍については気を守る。知ることが、攻める側と守る側の働きへ配り直されます。
ただ情報を集めるだけではありません。敵を知った結果は、敵の意志に働きかける判断へ向かいます。自分を知った結果は、自軍の気を壊さず時を待つ判断へ向かいます。知識と行動の間が短くなっています。
城壁と「気」では確かめ方が違う
城壁には高さと厚さがあります。壊れた場所も目で追えます。ところが、人の気は石のようには測れません。声が大きくても、内心まで強いとは限りません。静かでも、退く気がない場合があります。
そこで「知る」という仕事が難しくなります。敵の心については、行動、命令、陣の乱れ、使者の言葉などから考えるほかありません。自軍については、疲労や損害だけでなく、命令が届くか、兵が互いを信じているかにも目を配る必要があるでしょう。
もっとも、後半の例は四行に直接書かれた項目ではありません。心と気を石垣と同じ方法で扱えないことを説明するための手掛かりです。原文に戻れば、求められているのは「敵の心を攻める術」と「自軍の気を守って待つこと」までです。
測りにくいから省いてよい、とはなりません。むしろ、城と陣だけを見て済ませないために、知彼と知己が置かれています。
「攻心」を奇策だけに狭めない
攻心という語には、派手な計略の印象がつきまといます。偽情報、威嚇、離間、説得。そうした手段を連想することはできますが、四行には列挙されていません。
むしろ、城と陣への物理的攻撃だけでは足りない、という対比が先です。敵の意志をどう読むか。自軍の気をどう保つか。攻め手の工夫だけでなく、守り手の持久も同じ重さで置かれています。
奇策の話だけにすると、半分を落とします。攻心と守気は一組です。
四行から言えること、言えないこと
四行から確かに読めるのは、城壁・陣形と人の状態を分けて扱っていることです。攻める側には敵の心への働きかけが要る。守る側には自軍の気を保って待つ備えが要る。そして両者は知彼・知己に結ばれます。
一方、特定の攻心術の手順までは分かりません。どの手段をいつ使うべきかも書かれていません。君主と将軍についても、制度や官職の細部を説明する箇所ではありません。
短い原文には限界があります。その限界を守ると、対句の骨格がよく分かります。城を壊す前に人を読む。城を守る間に人を保つ。敵を知ることと自分を知ることが、そこで別々の仕事になります。
出典
『唐太宗李衛公問対』下巻、知彼・知己を攻心・守気に結びつける問答による。原文は、源吉の慶長十一年(一六〇六)古活字版をもとにした早稲田大学図書館蔵『唐太宗李衛公問対』三巻(請求記号 文庫19 F0103)のPDF画像34で確認した。句読点と四行の区切りは編集上補った。