五輪書を読む · 01

「観の目つよく、見の目よわく」とは何か——『五輪書』の目付

「観の目」と「見の目」は、精神論を飾る言葉なのでしょうか。水の巻を開くと、まず目を大きく広く配れと書いてあります。次に遠近の扱い。心構えの話ではなく、目の使い方の話です。

今回の一節の新規現代語訳

目の配り方は、大きく広く取る。
見る働きには「観」と「見」の二つがある。観の目を強く、見の目を弱くし、遠い所を近く捉え、近い所を遠く捉えることが、兵法の要点である。

『五輪書』水の巻「兵法の目付といふ事」の冒頭。水の巻は構えと太刀の使い方を説く巻で、そのなかで目の配り方だけを取り出した短い節です。

原文

目の付け様は大きに広く付くるなり。
観見二つの事、観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、近き所を遠く見る事、兵法の専也。

『五輪書』水の巻「兵法の目付といふ事」冒頭の二文。教材社『五輪の書 原本』(一九三九年)十九頁により、表記を整えました。

語句の注

  • 目付——「どこを見るか」だけではありません。視線をどう配り、相手との距離をどう取るか。技術の問題です。
  • ——一点の形にとらわれず、広い関係をつかむほうの見る働き。
  • ——目の前に現れた形をじかに見る働き。本文は要らないとは言いません。強弱をつけよと言っています。
  • 兵法の専——兵法でいちばん肝心なこと。

「観の目」と「見の目」は何が違うのか

「観の目つよく、見の目よわく」だけを抜き出すと、観は深い洞察、見は浅い知覚。そう説明したくなります。ところが、この一節が最初に命じているのは「大きに広く」目を付けることです。人格の高い低いを言っているのではありません。目の前の相手に視線を吸い取られるか、まわりを含めた配置を保てるか。目の使い方の話です。

「見の目よわく」は、相手や武器を見るな、という意味ではありません。見えている形を捨てたら、技になりません。加減しているのは、目の前の一点が注意を丸ごと持っていく強さです。見る働きは残したまま、観る働きに主導権を持たせる。原文は「観見二つ」と並べてから強弱を言っています。片方を全否定したのではなく、配分を指示したと読むほうが自然です。

なぜ「大きに広く」が先に来るのか

剣を前にすれば、切先や手元の動きに目が行きます。ところが、そこだけを追うと、相手の体の向きも、距離の変わり方も、同時にはつかめません。武蔵は、どこを見るかを並べる前に、目の置き方そのものを広くせよと言います。この順番が肝心です。見る対象の一覧ではありません。見る範囲を狭めないための原則から入っています。

ですから「観」を、見えないものを感じ取る超常の力として説明する必要はありません。引用した範囲に書いてあるのは、広い目付、二つの見る働き、その強弱、遠近の扱い。それだけです。そこにない神秘の能力を足すより、視線を一点に貼りつかせないための指示として読む。そのほうが文の並びに忠実です。

「遠きを近く、近きを遠く」の意味

次に原文は、ふだんの距離感をひっくり返すような言い方をします。遠い所を近く見る。つまり、遠くをぼんやりした背景として放っておかず、いま判断すべきことの中に入れる。近い所を遠く見る。つまり、目の前の物に押されず、少し引いて全体の中に置き直す。そう読めます。

ここでも、実際の距離が変わるわけではありません。変わるのは、注意のかけ方です。遠いものを判断から外さない。近いものを大きく見すぎない。二つの命令は対になっていて、遠近どちらかに偏るのを抑えています。冒頭の「広く」とつなげれば、奇抜な逆説ではありません。視野の釣り合いを保つ話です。

「観の目つよく」を標語だけにしない

この句は短くて覚えやすいので、剣術を離れた処世訓として紹介されがちです。けれども引用したのは、水の巻の「兵法の目付」という節です。言葉の格好よさだけを現代へ持ち出すと、何を加減するための言葉だったのか分からなくなります。まずは相手と向き合う場面で、近くの強い刺激と、広い関係を同時に扱うための目の使い方。そこに置き直します。

それに、この二文だけでは、視線をどの角度に固定するのか、体のどこを見るのか、どんな稽古を積むのかまで決められません。書いてあるのは原則です。実際の体の動かし方まで復元したければ、同じ巻の続きや、伝承や、稽古の資料を別に調べることになります。短い原文を、書かれていない手順で膨らませないことです。

水の巻の技術語として読む

水の巻は、心の持ち方、身なり、目付、太刀の持ち方、足づかい。この順に進みます。並びを見れば、「観」と「見」が独立した哲学用語でないと分かります。体と太刀を働かせるための技術語です。心だけでも足りない。目だけでも足りない。広い目付を保っているから、ほかの動作をその場で選べます。

「観の目つよく、見の目よわく」を一言に縮めるなら、こうなります。目の前の一点を消すのではない。その一点に全体を持っていかせない。二つの目は別々の器官ではありません。同じ目をどう働かせるかの区別です。原文が短いのは、万能の格言だからではありません。稽古の中で確かめるべき原則を、そこまで縮めてあるからです。

節の表題が「兵法の目付」であることも、言葉の射程を測る手がかりになります。「観」と「見」だけを取り出して思想体系を組むのではなく、まず目付を説明する二つの語として読む。すると、最初の「広く」、中ほどの強弱、最後の遠近が、一つの指示につながります。広い範囲を保つために観を強める。近くの刺激だけが大きくならないよう見を抑える。遠い所も判断の内側に入れる。三つの句はばらばらの格言ではありません。同じ問題を、三方向から整えています。

「広く付ける」「観を強く」「遠近を入れ替える」——ここから先は分からない

この一節は、武蔵が実際の戦いでどこを見ていたかを記録した目撃証言ではありません。後世の流派がみな同じ用語と方法を使ったことも、証明されていません。分かるのは、『五輪書』水の巻が理想の目付をどう言葉にしたか。そこまでです。

「観」を直感や予知と同じものと考える根拠も、二文にはありません。原典から確かに言えるのは、広く目を配ること、観と見の強さを加減すること、遠近への注意を釣り合わせること。この三つが兵法の要点とされた、というところまでです。

出典

宮本武蔵『五輪書』水の巻「兵法の目付といふ事」冒頭。底本は教材社『五輪の書 原本』(一九三九年)十九頁。書誌は国立国会図書館サーチにより、著者・出版年・永続的識別子と目次上の節位置を確認した。