五輪書を読む · 06

武蔵はなぜ初心者に二本の刀を持たせたのか

二刀流と聞くと、左右の手に刀を構える姿を思い浮かべます。けれども武蔵が地の巻で先に言うのは、二本を持ち続けることではありません。太刀を片手で取れるようになるためだ、と書きます。

今回の一節の新規現代語訳

この流儀では、初心者のうちから太刀と刀を左右の手に持って、道を習う。それが本筋です。
命を捨てる場では、持っている道具を残さず役に立てたい。道具を役に立てず、腰に納めたまま死ぬのは、本意ではない。
ただし、両手に物を持てば、左右どちらも自由には使いにくい。
だから太刀を片手で取ることに慣れさせるのです。

『五輪書』地の巻「此一流二刀と名付くる事」。五巻の説明を終えたあと、二刀一流という名と、初心者の稽古を説く段です。次には、両手で太刀を構えることが不自由になる場面を挙げます。

原文

一流の道初心の者に於て、太刀、刀両手に持ちて道を仕習ふ事実の所也。
一命を捨つる時は、道具を残さず役に立てたきもの也。道具を役に立てず、腰に納めて死する事、本意にあるべからず。
然ども、両手に物を持つ事左右ともに自由には叶ひがたし。
太刀を片手にて取りならはせんため也。

『五輪書』地の巻「此一流二刀と名付くる事」の四行。教材社『五輪の書 原本』(一九三九年)九頁により、旧字を通用字に改め、句読点を整えました。

語句の注

  • 二刀
    ここでは流派名であると同時に、太刀と刀の二本を扱う稽古の出発点です。二本を常に同じ形で構える、という意味だけにはなりません。
  • 太刀・刀
    本文では二つを対にして挙げます。現代の刀剣分類をそのまま当てはめるより、腰に携える二つの道具として読んだほうが、この段の話がつながります。
  • 道具
    身につけた武具を指します。道具を増やせばよい、という話ではありません。
  • 片手にて取る
    片手で太刀を持ち、使えるようにすることです。最後の一文が、二本を持つ稽古の目的を言います。
  • 取りならはす
    一度だけ試すことではなく、手になじむまで繰り返して習わせることです。

二刀流の派手さから入らない

二刀流には、どうしても目を引く姿があります。右手と左手に一本ずつ。映画や絵では、その形が先に記憶に残ります。

しかし武蔵は、ここで見せ場を語っていません。初心者が太刀と刀を両手に持つ、と書いた直後に、両手がふさがれば自由には扱えない、と続けます。二本持てば便利だ、と言い切る文章ではないのです。

さらに最後には、太刀を片手で取るためだと置きます。ここが大切です。二本を持たせるのは、左右に二本の刀を構えた姿を完成させるためだけではありません。片手で太刀を取ることを、初めから手になじませるためです。

最初から二本を持つ理由

第一文には「初心の者に於て」とあります。すでに技が身についた人の話ではありません。始めたばかりの人が、太刀と刀を左右の手に持って習う。その始め方を「実の所」と呼びます。

ここで二本を持つと、すぐに困ります。両手とも空ではなくなるからです。太刀を両手で持つ形に慣れていた人には、片手で取る太刀が重く、心もとないでしょう。短い刀をただ添えるだけでは、その不自由は消えません。

武蔵は、その不自由を隠しません。両手に物を持てば、左右とも自由にはならない。だからこそ、片手で太刀を取ることに慣れる。順番は明快です。二本を持つ。自由が減る。その中で片手の太刀に慣れる。

腰にある刀を使わないままにしない

第二文は強い言い方です。命を捨てる時には、道具を残さず役に立てたい。腰に納めたまま死ぬのは本意ではない、とまで言います。

これは、二本あれば必ず二本とも抜け、という合図ではありません。直後に両手の不自由を言うからです。むしろ、腰にある刀を「無いもの」のように扱わず、どんなときに使えるのかを知っておけ、と読むほうが自然です。

太刀だけを両手で握ることに慣れると、もう一方の刀は腰に残ります。ところが人の手は二本しかありません。二本の道具を前にして、片方を使えるか、両方を同時に持てば何が難しいか。その二つを、武蔵は一続きで考えています。

両手がふさがると何が起こるか

「左右ともに自由には叶ひがたし」は、二刀の記事では見落とされやすい文です。二刀を称える言葉ではありません。二本を手に取ることで生じる制限を、そのまま認めています。

ここでは、どのように斬るかは詳しく書かれていません。手の位置も、足の運びも、相手との距離も書かれていません。ですから、この四行から具体的な技を再現することはできません。

ただ、両手を別々の物に使うと、片方の手を別のことへ回しにくくなる。その当たり前の問題を、武蔵は稽古の出発点に置きます。二刀を珍しい芸として飾るのではなく、手が足りない状況として扱います。

片手の太刀を「慣れ」で身につける

結びは「取りならはせんため也」です。勝つ秘訣だ、とも、誰でもすぐできる、とも書きません。慣れさせるためだと言います。

この言葉には時間が入っています。片手で太刀を持つことは、思いついた時だけ行うものではありません。初心者のうちから二本を持たせ、重さや不自由を経験させ、そのうえで片手の太刀を自分のものにしていく。そういう稽古の時間が想定されています。

『五輪書』は、短い言葉が格言として切り取られがちです。しかしここでは、慣れるまでの繰り返しが要です。二刀という名称だけを覚えても足りません。武蔵が問題にしたのは、太刀を片手で取れないことでした。

ここからは決められないこと

第一に、この四行だけで、当時の武士がみな二刀の稽古をしていたとは言えません。武蔵は自分の一流の道について書いています。武士が二本を腰に帯びると述べても、稽古の内容まで同じだったとは限りません。

第二に、太刀と刀の長さや形を、現代の分類で細かく決めることもできません。この段では、二本を腰に携え、手に取る道具として話が進みます。それ以上を言うには別の史料が要ります。

第三に、武蔵がいつでも二本を同時に使うべきだと考えた、とも読めません。本文は、両手に物を持つ不自由を認めています。片手で太刀を取れるようにする理由も、そこにあります。

第四に、現代の仕事や生き方に「手持ちの資源を全部使え」という標語を引き出す文章でもありません。ここで言う道具は、武士が腰に帯びる太刀と刀です。身体と武具の関係を外してしまえば、原文から遠ざかります。

二刀という名に入っている問い

二刀一流という名は、二本の刀を持つ姿を思わせます。けれども地の巻の四行を読むと、名前の中身はもっと厳しいものです。腰にある二本をどう扱うか。両手がふさがれば何が不自由か。片手の太刀にどう慣れるか。

二本を持つことだけでは終わりません。二本があるから、片手の太刀を習わなければならない。武蔵はそう書きます。派手な二刀流の像より先に、初心者の手の不自由が置かれています。

この順で読めば、二刀は余分な飾りではありません。同時に、何でも解決する武器でもありません。持っている道具を役立てながら、手の限界も引き受ける。そのための稽古の名が、ここでいう二刀一流です。

出典

宮本武蔵『五輪書』地の巻「此一流二刀と名付くる事」。教材社『五輪の書 原本』(一九三九年)九頁。国立国会図書館の書誌は、宮本武蔵著、教材社刊の底本と永続的識別子を記録しています。影印は同版のパブリックドメイン資料により確認しました。