五輪書を読む · 08
「構えは有りて、構えは無し」——『五輪書』水之巻
武蔵は五方と五つの表を説いた直後に、「有構無構の教の事」を置きました。形を学んだうえで、形に居着かないためです。冒頭三文から、太刀の位置を決める基準を読みます。
今回の一節の新規現代語訳
「構えがあって構えがない」とは、そもそも太刀を構えるということがあってはならない、という教えです。
ただし、太刀を五つの位置に置くため、それらは構えにもなります。
敵との関わり、場所、場のありさまに従い、太刀をどこに置いても、その敵を切りやすいように持つ心が必要です。
原文
有構無構といふは、元来太刀を構ふるといふ事有るべきにあらず。
され共五方に置く事あれば、構へともなるべし。
太刀は敵の縁により、所により、形気にしたがひ、何れの方に置きたりとも、其敵きりよき様に持つ心なり。
五方を習った後に読む言葉
水之巻では、上段・中段・下段・右脇・左脇を五方と呼びます。その後には、五つの表が続きます。太刀筋を手で覚える段です。
武蔵は形から始めました。形を退けてはいません。位置に名前を付け、順序を設け、稽古を求めます。
その直後に「有構無構」が来ます。ここが大切です。五方を知らないまま、構えは要らないと言ったのではありません。五方を覚えた者が、五方の名に縛られないための教えです。
順番を外すと、読み違えます。「無構」だけを抜き出せば、形を持たない自由に聞こえます。しかし、先に五方があります。無構は無知と同じではありません。
構えを消したわけではありません
第一文は強い言い方です。もとより太刀を構えるということがあってはならない、と言い切ります。ところが、第二文では五方を認めます。太刀を五つの位置に置けば、それは構えにもなるからです。
二つの話は矛盾しません。太刀には置き場があります。身体も消えません。敵との間も残ります。ただし、構えを独立した目的にはしません。
太刀を上に置けば、上段と呼べます。中央なら中段です。呼び名は稽古に役立ちます。師と学ぶ者が位置を共有できるからです。
けれども、名前が先に立つと危うくなります。上段を守ること自体が目的になれば、敵の動きや場所から離れます。武蔵が退けたのは、位置そのものより、位置への居着きです。
「置く」と「構える」の距離
第二文には、「五方に置く」とあります。太刀はどこかに置かれます。その事実から、構えという呼び方も生まれます。
一方、第一文では「構ふる」を警戒します。構えようと意識し、一つの形を完成品のように扱う心です。置き場は必要です。完成品は要りません。
ここには微妙な距離があります。位置を知る。位置を取る。けれども、位置に留まりません。
武蔵は後の文で、上段を少し下げれば中段になり、下段を少し上げても中段になると説きます。両脇から中央へも移れます。境目は固くありません。
構えは静止画ではありません。移りゆく途中にも名が付きます。だから、一つの名前だけで太刀の働きを囲えません。
敵・所・形気という三つの基準
第三文では、太刀の位置を決める側へ視線が移ります。基準は三つです。敵との縁、所、形気です。
「縁」は敵との関わりです。敵との距離や向き、動きのつながりを含んで読めます。自分だけで形を決めても、相手との関わりを失えば用をなしません。
「所」は実際の場所です。広さや足場、周囲の障害によって、太刀を置ける範囲は変わります。道場の中央と狭い場所とでは、同じ形を保てるとは限りません。
「形気」は、その場の姿と気配です。教材社版では、この二字に「けいき」と振り仮名があります。固定した技名ではありません。変化している局面のありさまを受け止める語です。
三つを別々に処理する表はありません。敵が変わる。場所が違う。場のありさまも動きます。太刀の位置は、その重なりの中で決まります。
太刀の置き場は仮のものです
第三文には、「何れの方に置きたりとも」とあります。太刀が上にあっても、中央にあっても、脇にあってもよい、という幅があります。
ただし、何でもよいわけではありません。後半に条件があります。その敵を切りやすいように持つ心です。
仮の置き場には理由が要ります。敵との縁に合うこと。場所に合うこと。形気に従うこと。そのうえで、切る働きへつながることです。
見栄えのよさだけでは足りません。教本の図と同じ形でも、今の敵へ届かなければ基準を満たしません。形の正確さは、関係の中で確かめられます。
逆に、形を崩したように見えても、すぐに誤りとは決まりません。敵や場所が変われば、必要な位置も変わるからです。判断は外見だけでは終わりません。
小さな移りが構えをほどきます
冒頭三文の後では、五方の間を移る例が並びます。大きな跳躍ではありません。少し下げる。少し上げる。少し中央へ出す。その程度です。
上段と中段の境も動きます。下段と中段の境も同じです。構えの名は便利ですが、太刀の動きを止める壁ではありません。
ここで「水之巻」という名も思い出せます。ただし、水の比喩を勝手に広げる必要はありません。本文にある移り方だけで十分です。武蔵は位置を連続させています。
構えが移れば、心も一つの名に留まれません。今は上段だから上段を守る、とは限りません。少し下げる必要があれば、中段になります。変更を敗北と考えません。
「切りよき様」が最後の尺度です
三つの基準を受けた後に、「其敵きりよき様」と続きます。目的は明白です。太刀の使用を説く箇所であり、文字どおり敵を切る話です。
ここを現代の仕事術や自己啓発へ置き換えると、原文の範囲を越えます。武蔵は組織運営や発想法を論じていません。剣をどう持つかを説いています。
また、目的が明白だからといって、ただ急げばよいわけでもありません。敵との縁を読む。所を受け入れる。形気に従う。その過程を飛ばせません。
「切る」と唱えるだけでは、構えへの固着と同じです。現実の関係を見ず、自分の考えだけを押し通すからです。武蔵が求めた心は、目的と状況の両方を離しません。
有と無はどちらも必要です
有構だけなら、五方が固定されます。無構だけなら、稽古の基準が消えます。武蔵は片方を選びません。
有によって、位置を学べます。差を言葉にできます。師の教えも受け取れます。
無によって、学んだ位置から動けます。敵と場所へ応じられます。形気の変化にも遅れません。
二つは稽古の別段階とも読めますが、冒頭では並んでいます。形を持つ時にも、固着を避けます。形を離れる時にも、五方の理解を失いません。
構えはあります。構えはありません。武蔵の言葉は、どちらか一方へ逃げる道をふさぎます。
この三文からは決められないこと
冒頭三文だけで、武蔵がすべての型を否定したとは言えません。直前に五つの表があり、稽古を命じています。型の全面否定とは両立しません。
どの姿勢でも同じ価値がある、とも言えません。「切りよき様」という尺度があります。敵・所・形気との合い方も問われます。
宗教的な無の境地を説いた、と決める材料も足りません。ここで扱われるのは太刀の置き方です。身体、武器、敵、場所がすべて残っています。
後世の二天一流で各語がどう受け継がれたかも、別の史料が必要です。今確かめられるのは、教材社版二十五頁に収められた水之巻の言葉です。範囲を守って読みます。
位置は関係の中で生きます
武蔵は五方を教え、その後で構えへの固着をほどきました。太刀は必ずどこかにあります。けれども、その場所は仮です。
決め手は名前ではありません。敵との縁、実際の所、移りゆく形気です。三つに応じて、切りやすい位置を取ります。
形を知るから移れます。移れるから形が働きます。有構と無構は、形と自由を単純に対立させる言葉ではありません。
構えは稽古の言葉です。同時に、今の関係へ応じるための仮の位置です。主人ではありません。武蔵が最後に残した尺度は、その敵を切りやすいかどうかです。
出典
宮本武蔵『五輪書』水之巻「有構無構の教の事」冒頭三文。底本は宮本武蔵著『五輪の書 原本』(教材社、一九三九年)二十五頁です。国立国会図書館の書誌には、著者、出版者、刊年、目次、永続的識別子10.11501/1071527が記録されています。本文は同版のパブリックドメイン画像二十五頁と照合しました。節の前後関係は、国立国会図書館デジタルコレクション第132コマへつながる水之巻の公開翻刻でも確認しました。