『五輪書』を読む · 11
「打つ」と「当たる」は違う——『五輪書』水之巻
刀が強く当たり、敵が倒れた。それでも武蔵は、「打った」とは限らないと言います。結果からさかのぼって技を褒める前に、動作がどのように始まったかを確かめます。
今回の一節の新規現代語訳
一、打つことと当たることについて。
打つことと当たることは、二つの別のものです。打つ心とは、どのような打ち方でも、あらかじめその意図を定め、確かに打つことです。
当たるとは、進んで物へ行き当たるほどの心です。強く当たり、敵がたちまち死ぬほどであっても、これは当たることです。
打つとは、心得た上で打つところにあります。よく吟味しなさい。
原文
一、打と當るといふ事。
打といふ事、あたるといふ事、二つ也。打つといふ心は何れの打にも思ひ設けて慥に打也。
あたるは行きあたる程の心にて強くあたり、忽ち敵の死ぬる程にても、是はあたる也。
打つといふは心得て打つといふ所也。吟味すべし。
同じように刀が届いても、名前が変わります
外から見れば、違いは小さく感じられます。刀が相手へ届きます。衝撃が生まれます。相手が倒れることもあります。
けれども武蔵は、二つに分けます。
一つは「打つ」です。もう一つは「当たる」です。刀が触れたかどうかだけでは、どちらか決まりません。力の強さでも決まりません。
武蔵は極端な例を置きます。敵がたちまち死ぬほど強く当たった。それでも「当たる」の側に残します。
結果は大きい。
しかし、結果の大きさと動作の質を同じにしません。ここから読み始める必要があります。
先に「思ひ設ける」があります
打つ心について、武蔵は「思ひ設けて」と書きます。打つ前に、その意図を立てます。そして確かに打ちます。
長く考え込む、という意味ではありません。刀を止め、頭の中で順番を唱えてから動く、とも書かれていません。水之巻では、滞りや固さを嫌います。速い動きの中でも、自分が何をするかは定まります。
意図と動作が離れません。
一方の「当たる」は、行って、行き当たる心です。動きの勢いのまま、何かへ接します。偶然だけとは限りません。敵を狙って進んだ場合もあるでしょう。
それでも、打つという働きを自分で整えたかが残ります。武蔵は到着より前を見ます。
強さを増しても、「打つ」にはなりません
強く当たれば、弱い当たりより役に立つ場面があります。敵へ大きな損傷を与えるかもしれません。実戦なら、結果を無視できません。
武蔵も結果を否定していません。
むしろ、最も大きな結果を認めます。「忽ち敵の死ぬる程」です。それほどでも、分類は変えません。
力を足すだけでは、足りないからです。
勢いのある動作は、標的へ偶然うまく届くことがあります。稽古では、音も大きくなります。巻藁なら深く切れるかもしれません。見た人も驚きます。
ただし、同じ働きを繰り返せるとは限りません。距離が変わった時に直せるか。相手が動いた時に止められるか。なぜ届いたかを自分で説明できるか。別の問いが残ります。
強く当たっても、未整理の動作が自動で整うわけではありません。
「慥に」は腕力だけを指しません
「慥に」は、確かに、しっかりと、と読めます。ここを「力いっぱい」とだけ取ると、段の対比が崩れます。
当たる側にも強さがあるからです。
武蔵は「強くあたり」と明記します。腕力や衝撃の大きさを「打つ」だけへ配っていません。そこで「慥に」は、意図した一打を確かに行う質として読みます。
方向を知っています。間を受け取っています。何を打つかも定まっています。それらが一つの動作になります。
もちろん、四行だけで技法の全部は分かりません。足の運びも、握りも、構えも書かれていません。どの部位を狙うかも、この段では決めていません。
確かな心だけあれば、技術が不要になるわけではありません。技術を行う時の確かさです。
成功した直後こそ、吟味が要ります
失敗すれば、人は原因を探します。届かなかった。間が遠かった。遅れた。刀筋が乱れた。直す所を見つけやすくなります。
成功すると、調べる手が止まりがちです。
標的へ届きました。強い音もしました。相手も崩れました。ならば良い一打だった、と結びたくなります。
ここでは、その結論を急がないよう求められます。
結果が出ても、当たっただけかもしれません。自分が心得て打ったのかを振り返ります。始まりから終わりまで、自分の動作として扱えたかを確かめます。
最後の「吟味すべし」は、失敗者だけへの言葉ではありません。うまくいった者にも向きます。
標的から得られる答えには限りがあります
標的を見れば、刀がどこへ届いたか分かります。切れ方も残ります。打突の角度や深さも調べられます。
けれども、心の準備までは標的から分かりません。
動く前に意図が整っていたか。勢いに運ばれただけか。途中で崩れた動作が、たまたま届いたのか。別に観察しなければなりません。
だから、結果と過程の両方を見ます。
結果だけなら、当たりも打ちも一つに見えます。過程まで見れば、同じ着地点にも違いがあります。稽古する者は、刀の跡だけでなく、自分の動きの順を覚える必要があります。
教師が見る場合も同じです。派手な結果をすぐ褒めず、どのように始まり、どこで整い、どこで崩れたかを見ます。
「心得て」は知識の暗記で終わりません
武蔵は最後に、打つとは「心得て打つ」所だと言い直します。説明を知っているだけでは足りません。
頭で区別を言えます。
それでも、刀を持つと勢いに任せるかもしれません。強い音を求めるかもしれません。相手へ触れた安心で、動作の乱れを忘れるかもしれません。
心得るとは、動作の中で区別が働くことです。打つ前に意図を持ち、打つ間も見失わず、打った後には何をしたか分かります。
ここには反復が要ります。一度理解して終わりません。距離も速さも相手も変わります。そのたびに、打ったのか、当たったのかを調べます。
文章の最後が「吟味」になる理由です。
水之巻は、似た動作へ別の名を与えます
水之巻には、刀の持ち方、足の運び、五つの表、刺す動作、張る動作などが並びます。見た目が近い働きにも、武蔵は名を与えます。
名は飾りではありません。
稽古で違いを確かめるために使います。刀が触れたという一語で済ませれば、直す所が消えます。打つ、当たる、と分ければ、接触の前へ目を戻せます。
今回の二語は日常語です。秘密めいた名称ではありません。よく使う語を絞り、稽古の言葉へ変えます。
そのため、一般の日本語辞典だけで決着させない方がよいでしょう。武蔵はこの段のために、二語の働きを分けています。『五輪書』の教えの中で読む必要があります。
この四行だけでは決められないこと
すべての「打つ」と「当たる」が、いつでも同じ区別になるとは限りません。武蔵が水之巻で置いた稽古上の区別です。
意図さえあれば良い一打になる、とも書かれていません。距離、時機、刀の働きが悪ければ、目的へ届きません。
武蔵の特定の勝負を説明する段でもありません。敵の名、場所、年月はありません。伝記の場面を足すことはできません。
実際の打ち方を四行から復元することもできません。構え、足、刀筋を細かく指示していないからです。
敵が死ぬという表現を、現代の稽古で危険を軽んじる理由にもできません。安全な方法で違いを学ぶ仕事は、今の指導者と稽古者にあります。
「届いたか」の後に、もう一つ尋ねます
刀が届いた。
まず結果を見ます。次に、どのような動作だったかを見ます。
強かったから打ちと呼ぶのではありません。相手が倒れたから完成したとも限りません。武蔵は、成功に見える場面にも検討を残します。
思い設けて、確かに打ったか。
心得た上で行ったか。
この二つを尋ねれば、派手な当たりと、整った一打を分けられます。失敗だけでなく、成功からも学べます。
水之巻では、接触を終点にしません。刀が届いたという事実を受け取り、その動作を自分で知っていたかまで戻ります。
出典
宮本武蔵『五輪書』水之巻「打と當るといふ事」。本文の確認には、国立国会図書館所蔵の教材社版『五輪書』(一九三九年、国立国会図書館書誌ID 000000716662)二十九頁を用いた。確認した画像は、ウィキメディア・コモンズで公開されている国会図書館由来のPDFにある。句読点と記事上の改行を整え、原文の歴史的仮名遣いと旧字は保った。