兵法家伝書を読む · 02

『兵法家伝書』の無刀とは——刀を奪う見世物ではない

無刀は、素手で相手の刀を奪う秘技の名なのでしょうか。無刀之巻の書き出しは、まずそれを打ち消します。刀は必ずしも取らなくてよい。自分に刀がないとき、斬られない。それが先に来ます。

今回の一節の新規現代語訳

無刀といっても、必ず相手の刀を取らなければならないという意味ではない。
また、刀を取って見せ、それを名誉にしようということでもない。
自分に刀がない時、相手に斬られまいとするのが無刀である。
「さあ、取って見せよう」などということを本来の目的とするのではない。

『兵法家伝書』「無刀之巻」の冒頭。殺人刀・活人剣の二巻に続けて置かれた最後の巻で、無刀とは何かを定義から始めます。

原文

無刀とて、必ずしも人の刀をとらずして、かなはぬと云儀にあらず。
又刀を取て見せて、是を名誉にせんとてもなし。
わが刀なき時、人にきられじとの無刀也。
いで取て見せうなどと云事を本意とするにあらず。

『兵法家伝書』「無刀之巻」冒頭の四行。福井久蔵編『秘籍大名文庫 第二』(厚生閣、一九三七年)五十頁により、句読点を整えました。

語句の注

  • 無刀
    刀がない状態と、その状態でどうするかという考え方。書き出しは、名前から想像しがちな「必ず刀を取る技」をまず打ち消します。
  • 必ずしも
    例外を残す語。刀を取ること自体は否定していません。それを勝ち負けの条件から外しています。
  • かなはぬ
    目的を果たせない、用をなさない。刀を取らなければ無刀にならない、という理解を退けます。
  • 名誉
    ここでは、刀を取ってみせた手柄や評判のこと。後世の抽象的な道徳より、人前で成果を誇る場面に近い語です。
  • 本意
    本来の目的、中心にある狙い。刀を奪って見せることは無刀の本意ではない、と言っています。

「無刀」は否定から説明される

「無刀」と聞けば、刀を持たずに刀へ勝つ姿が浮かびます。素手で相手の刀を奪う特別な技かもしれない。ところが無刀之巻の書き出しは、その期待にすぐ蓋をします。「必ずしも人の刀をとらずして、かなはぬと云儀にあらず」。刀を取らなければ成り立たない、という意味ではない。そこから始まります。

第二行も第四行も否定です。「名誉にせんとてもなし」「本意とするにあらず」。言い切っているのは第三行だけ。「わが刀なき時、人にきられじ」。それだけです。四行のうち三行を、誤解を消すために使っています。題名の派手さを抑えて、目的を狭く定める書き方です。

ここを飛ばすと、無刀は超人的な奪刀術の看板になります。原文は逆です。何をしなくてよいか。何を目的にしてはいけないか。そちらを先に置きます。技の値打ちを、目立つ成果からいったん引き離して、危ない状況を無事に抜けることへ戻しています。

刀を取る技より、刀がない状況

第三行は「わが刀なき時」から始まります。無刀は、刀を持たないことを理想として選ぶ教えではありません。自分の刀がない、という不利な場面に結びついています。そのときの目的が「人にきられじ」、斬られないこと。

相手を倒す。刀を奪う。勝ち名乗りを上げる。そういう成果より先に、自分が斬られないことが来ます。成功したかどうかを、相手の持ち物では測りません。自分が無事かどうかで測ります。刀を取れなくても、斬られずに済んだなら、無刀の本意から外れない。そう読めます。

ただし「斬られない」の一句だけで、具体的な動きは復元できません。避けるのか。間合いを外すのか。相手を押さえるのか。四行に手順はありません。書き出しが決めているのは、技の一覧ではなく、何をもって達成とするかです。

二度出る「見せる」が退けるもの

第二行に「刀を取て見せて」。第四行に「いで取て見せう」。「見せる」が二度出てきます。ここで、宗矩が警戒しているものが分かります。刀を取る動作そのものだけではありません。それを人に見せて、手柄にしようとする気持ちのほうです。

「いで」は、さあ、それでは、と進み出るときの言葉です。「さあ取って見せよう」には、危険を避ける必要より、腕前を証明したい欲が先に立っています。無刀は、その見世物の動機を「本意」から外します。

この違いは、結果が同じでも残ります。やむを得ず刀を取った場合と、取るところを見せたくて危険に入った場合。動作は同じでも、目的が違います。宗矩は技の見た目ではなく、なぜそれをやるのかを基準にしています。

「必ずしも」が残す余地

書き出しは「人の刀を取ってはならない」と禁じてはいません。「必ずしも」と言って、刀を取ることを絶対の条件から外しただけです。この一語があるので、場合によっては刀を取ることもある、という余地が残ります。

ですから、無刀を「奪刀術ではない」と言い切るのも正確ではありません。刀を取る技も入りうる。ただし取ること自体を目的にも手柄にもしない。取れなくても失敗とは考えない。宗矩の立ち位置は、肯定と否定のあいだにあります。

「必ずしも」を落として訳すと、教えは分かりやすくなります。その代わり、判断の幅が消えます。この伝書が大事にしているのは、見栄えのする結末ではありません。刀があるかないか、相手がどう出るか。そのつど変わる場面で、目的を見失わないことです。

成功の基準は相手の刀ではない

刀を奪えば、勝ち負けが目で見えます。周りにも腕前が伝わります。手柄にしやすい成果です。ところが無刀之巻の書き出しは、相手の刀を手に入れたかどうかで成功を測りません。「人にきられじ」という否定形が基準です。

何も起きず、斬られず、刀も取らずに終わったら、外から見て華やかな技には見えません。それでも目的は果たされています。「見せる」と「名誉」が退けられるのは、この目立たない成功を見失わせるからでしょう。

勝負の値打ちを否定した一般論ではありません。自分に刀がないときの無刀について、その本意を定めた箇所です。武器を持つ通常の稽古も、ほかの巻の勝負論も、この四行だけでは置き換えられません。

無刀を無抵抗と読み替えない

刀を取ることが目的でないなら、何も抵抗しない教えなのか。原文はそこまで言いません。「人にきられじ」とある以上、危険を避ける気はあります。ただし、そのために何をするのか。四行は一つに決めていません。

無刀を、非暴力という現代の理念の標語にすることも、必ず相手を制圧する護身術と定めることも、この箇所だけではできません。刀を持たない場面で斬られないこと。奪って見せることを本意にしないこと。この二つから先へ進むには、同じ巻の続きか、別の資料が要ります。

現代の危ない場面にそのまま当てはめる助言としても読まないでください。伝書の一節を歴史上の技術思想として理解することと、いまの安全行動を指示することは、別です。本記事は原文の意味の範囲を確かめるもので、実技を教えるものではありません。

刀を取らなくてよい、斬られなければよい——ここから先は分からない

第一に、無刀が素手で必ず刀を奪える万能技だ、とは証明されません。書き出し自身が、その条件を打ち消しています。第二に、刀を取ることが無刀に入らない、とも言えません。「必ずしも」という限定があるからです。

第三に、四行は具体的な型も、足運びも、手の位置も、稽古法も説明しません。技の名前を並べた箇所ではなく、無刀の目的を正すための導入です。後世の演武で見る動作を、この四行の字面だけで宗矩の方法だと決めることはできません。

第四に、柳生新陰流の全体が名誉や勝利を否定した、とも決められません。ここで退けられているのは、刀を取って見せることを無刀の本意にする態度です。限られた批判を、流派全体の思想へ広げないことです。

派手さを外したところに本意がある

無刀之巻は、題名から期待される派手な場面を、書き出しで崩します。刀を取らなければならないのではない。取って見せて手柄にするのでもない。自分に刀がないとき、斬られないための無刀である。四行を順に読むと、目に見える成果から出発して、何のためにそれをするのかへ進みます。

こう読めば、無刀を神秘の境地にも、ただの無抵抗にも変えずに済みます。刀を取ることはあるかもしれない。ただし、そこにしがみつかない。腕前を見せたい気持ちより、いま置かれた不利をどうにかすることを先にする。最後の「本意」という語が、技の中心を、動作の華やかさから目的の選び方へ引き戻しています。

出典

柳生宗矩『兵法家伝書』「無刀之巻」冒頭。底本は福井久蔵編『秘籍大名文庫 第二』(厚生閣、一九三七年)五十頁。永続的識別子はDOI 10.11501/1074542CiNii Booksの書誌は、柳生宗矩著、福井久蔵撰輯、厚生閣、一九三七年十一月刊と記録する。