兵法家伝書を読む · 03
『兵法家伝書』はなぜ勝ちたい心を「病」と呼ぶのか
『兵法家伝書』の「病気之事」では、勝利も、稽古した技も、攻めも待ちも「病」とされます。悪い心だけの話ではありません。病を去ろうと力むことまで、同じ列に置かれています。
今回の一節の新規現代語訳
勝とうと一途に思うのも病です。兵法を使おうと一途に思うのも病です。
稽古で身につけたものを全部出そうと一途に思うのも病です。懸かろうと一途に思うのも病です。
待つことばかり考えるのも病です。病を去ろうと一途に思い固まるのも病です。
何であっても、心が一つのことに止まった状態を病とします。
原文
かたんと一筋におもふも病也。兵法つかはむと一筋におもふも病也。
習のたけを出さんと一筋におもふも病、かゝらんと一筋におもふも病也。
またんとばかりおもふも病也。病をさらんと一筋におもひかたまりたるも病也。
何事も心の一すぢにとゞまりたるを病とする也。
語句の注
- 病
医者が診断する病名ではありません。ここでは、心が一つのところに止まり、そこから動けなくなった状態を指します。 - 一筋
一つの筋道だけを追うこと。「勝つ」「兵法を使う」など、目的の違う言葉の後ろに繰り返されます。 - 習のたけ
稽古で習得したものの限り。身につけた技を全部出そうとする気持ちまで、病の中に数えられています。 - かゝらん/またん
懸かろうとすることと、待とうとすること。正反対に見える二つが、どちらも一筋に固まれば病になります。 - とゞまりたる
止まっていること。最後に置かれたこの語で、それまで並んだ例に共通するものが明かされます。
病は勝負の外から来るのではない
『兵法家伝書』殺人刀の「病気之事」には、意外な言葉が先頭にあります。まず、勝つこと。次に、兵法を使うこと。どちらも剣術を学ぶ人には、もっともらしい目的です。
恐れや迷いだけが病なのではありません。勝利への願いも病になる。習った兵法を使いたい心も病になる。宗矩はそう数えます。まじめな目的だから安全だ、とは考えていません。
ただし、勝敗を捨てよとは書かれていません。「勝つ」ではなく、「勝たんと一筋におもふ」とあります。問題は願いの中身だけではありません。一つの考えに心が張りつき、ほかへ動けなくなることです。
短い違いです。しかし重い。勝ちを望んだ瞬間に病になるのではなく、勝ちだけを追う状態が危ぶまれています。勝負の最中には、相手も間合いも動きます。先に決めた願いだけは動かない。そこにずれが生まれます。
習った技が先に立つ
「習のたけを出さん」は、稽古で身につけたものを出し尽くそうとすることです。技を覚えれば、使いたくなります。長く稽古した技ほど、試したくなるでしょう。
それ自体は不思議ではありません。けれども、技を出すことが先に決まると、目の前の事情は後回しになります。いま必要か。相手はどう動いたか。出すべき時か。そうした判断より、「これを使う」が先に来ます。
宗矩は稽古を否定していません。習得したものがあるからこそ、「習のたけ」という言い方ができます。戒められているのは、覚えた技を披露するために場面を選ぶ心です。技の数を減らせ、とも書かれていません。
稽古と病は別々ではありません。よく習った人にも病は起こります。むしろ、使える技が多い人ほど、どれかを出したい思いが生まれます。学んだ量が、そのまま判断の自由になるとは限らないのです。
懸かるも待つも同じ病
懸かる。待つ。動きとしては反対です。
懸かる側は、先に攻めます。待つ側は、相手の出方を見ようとします。どちらが正しいか。引用した四行には答えがありません。宗矩は二つを並べ、どちらにも「一筋」や「ばかり」を添えています。
攻めに固まれば病です。待つことだけでも病です。そこで、攻めをやめて待てば解決する、とはなりません。待つことを決まりにした瞬間、別の場所で心が止まります。
選ぶ前に答えを固定しない。それが大事です。懸かるか待つかは、その場で変わりえます。相手が動けば、先ほどまでの判断も変わるでしょう。ところが一筋に思い込むと、変化に気づいても選び直せません。
この四行から、具体的な型は分かりません。足の位置もありません。刀の角度もありません。心が止まるときの共通点だけが語られています。実技の手順とは分けて読む必要があります。
病を消そうとする心まで病になる
いちばん厳しいのは、「病をさらんと一筋におもひかたまりたるも病也」の一句です。勝ちへの執着を捨てよう。技を出したい心も捨てよう。そう決心したところで、また一つの考えに固まります。
病を消すことは、よい目的に見えます。それでも安心できません。消そうとする考えだけで頭がいっぱいになれば、心はそこに止まったままです。中身が勝利から修正へ変わっただけです。
そこで最後に、範囲が広げられます。「何事も」。何であっても、です。勝ち、兵法、習った技、懸かること、待つこと、病を去ること。名前は違います。止まり方は同じです。
病を悪い考えの一覧と受け取ると、この転換を読めません。よい考えなら残してよい、という話ではないからです。正しい答えを握ったまま離さない心も、動けなくなる点では変わりません。
ここでいう「病」は病名ではない
現代の「病気」から、心身の疾患を思い浮かべるかもしれません。けれども、宗矩は診断をしていません。症状の記録でもありません。薬や治療の話でもありません。
「何事も心の一すぢにとゞまりたる」を病とすると、本文の中で定義されています。一つの対象に心が止まること。それがここでの病です。医学の用語へ置き換えると、原文にない意味まで背負わせてしまいます。
かといって、「間違い」と薄く言い換えるだけでも足りません。病という語は、働きを妨げるものとして扱われています。しかも、この後には病を去る段階についての項目が続きます。二十頁の見出しの次に、二十一頁では「病をさるに初重後重の心持有事」が始まります。
本記事で引用したのは、その前の四行だけです。続きの説明を混ぜて、四行だけで全部分かったことにはできません。まず、何が病と呼ばれたか。そこまでを確かめます。
四行から言えないこと
第一に、柳生宗矩が勝利を否定したとは言えません。勝とうと一筋に固まる心が病とされています。勝敗そのものを不要とする文ではありません。
第二に、稽古を忘れよとも言えません。習ったものを全部出そうと力むことが数えられています。稽古の方法や価値は、別の箇所も読まなければ決められません。
第三に、攻めより待ちがよいとも、待ちより攻めがよいとも決められません。両方が病になりえます。どちらを選ぶかは、引用の外です。
第四に、無念無想になれば必ず勝てる、とも書かれていません。四行には勝敗の結果がありません。心が止まる状態を病と呼ぶ。それだけです。
また、現代の競技や仕事へそのまま移すことも控えるべきです。似た経験を思い出す人はいるでしょう。けれども、ここは剣術伝書の心法です。歴史上の文脈を外せば、言葉だけが便利な標語になります。
心を止めないための入口
四行には、「病也」が何度も戻ってきます。勝つのも病。兵法を使うのも病。習ったものを出すのも病。懸かるのも待つのも病。病を去ろうとするのも病です。
列挙の最後で、違う事柄が一つにまとまります。心が一筋に止まること。宗矩が病と呼んだのは、特定の作戦ではなく、その止まり方でした。
だから、反対の行動を選ぶだけでは足りません。攻めに固まった人が、待つことへ固まり直しても同じです。技に頼った人が、技を使わないことへ固まっても抜け出せません。何を選んだかより、選んだものから動けるかどうかが問われます。
「勝とうと思うな」という標語だけでは、原文の半分も残りません。勝ちを病と呼んだ後に、修正する心まで病と呼ぶ。そこまで読んで、ようやく二十頁の入口に立てます。
出典
柳生宗矩『兵法家伝書』殺人刀「病気之事」。底本は福井久蔵編『秘籍大名文庫 第二』(厚生閣、一九三七年)二十頁。Wikimedia Commons公開画像の十九枚目で本文を確認した。国立国会図書館の永続的識別子はDOI 10.11501/1074542。CiNii Booksの書誌は、柳生宗矩著、福井久蔵編、厚生閣、一九三七年十一月刊と記録する。