兵法家伝書を読む · 04

「一人の悪」と「万人」——『兵法家伝書』殺人刀

『兵法家伝書』上巻「殺人刀」の第一頁には、一人を殺して万人を生かすという三文があります。刀の働きを美化した一句ではありません。一人を「悪」と決める重さも残ります。

今回の一節の新規現代語訳

一人の悪人のために、大勢の人が苦しむことがあります。
そこで一人の悪人を殺し、大勢の人を生かします。
まことに、このように人を殺す刀は、人を生かす剣というべきでしょう。

『兵法家伝書』上巻「殺人刀」の冒頭です。武器を不吉な道具と呼び、やむを得ない時に用いると述べた後、一人と万人を対にして刀の働きを語ります。

原文

一人の悪に依て萬人苦む事あり。
しかるに一人の悪をころして、万人をいかす。
是等誠に人をころす刀は、人をいかすつるぎなるべきにや。

『兵法家伝書』上巻「殺人刀」冒頭の三文、句読点と空白を除いて五十八字です。福井久蔵編『秘籍大名文庫 第二』(厚生閣、一九三七年)一頁により、句読点を整えました。

語句の注

  • 一人の悪
    多くの人を苦しめる原因とされた一人です。固有名詞ではなく、認定の方法も三文にはありません。
  • 万人
    一万人という統計ではありません。非常に多くの人を表す言い方です。
  • 殺人刀
    上巻の題名です。実際の斬り方だけでなく、先、心の病、拍子なども説かれます。
  • 人をいかすつるぎ
    一人を殺した結果として大勢が生きる、という逆説です。刀が無害になったわけではありません。

第一頁に置かれた言葉

引用箇所は上巻の第一頁にあります。後書きではありません。話の入口です。

少し前では、武器を不吉な道具と呼びます。天道もこれを憎む。やむを得ず使う時がある。その順で話が進みます。

刀をたたえる文章から始まったのではありません。嫌うべき道具です。それでも使う場合を考えます。

その直後に、一人と万人が出ます。大勢を苦しめる一人を殺す。そうすれば大勢が生きる。この場合に限って、殺す刀を生かす剣と呼びます。

ためらいが先です。正当化は後です。順番を逆にすると、意味も軽くなります。

「万人」は人数の報告ではありません

「萬人」と「万人」が続きます。表記は違いますが、どちらも大勢の人です。

一万人を数えた記録ではありません。何人救えば許される、という計算でもありません。少数と多数を強く対照させています。

一人が原因です。苦しむ側は大勢です。だから、その一人を除けば被害が止まる。三文はその前提で進みます。

しかし、前提は証明されていません。本当に一人が原因なのか。殺せば苦しみが終わるのか。別の方法はないのか。

答えは書かれていません。人数の差が大きいほど、判断は簡単に見えます。そこに注意が要ります。

刀は刀のままです

「人をころす刀」とあります。殺す働きを隠しません。

その後に「人をいかすつるぎ」と続きます。同じ刀です。別の道具へ持ち替えたのではありません。

変わったのは、結果の捉え方です。一人が死ぬ。大勢が生きる。後者から見れば、刀に「生かす」という名が付きます。

けれども、最初の死は消えません。美しい言葉で覆ってもいません。殺す刀であることを認めたうえで、別の働きを重ねます。

ここに逆説があります。殺と活は別々ではありません。一つの行為を、近い結果と広い結果から呼び分けます。

「悪」は誰が決めるのか

もっとも重い語は「悪」でしょう。一人の人間に付けられています。

悪と決まれば、その後の話は進みやすくなります。大勢を苦しめる原因です。殺せば大勢が助かります。

問題は、その前です。誰が悪と認定するのか。何を証拠にするのか。誤りならどうするのか。本文三文には手続きがありません。

だから、個人が勝手に名指ししてよいとは読めません。自分が正しいと思えば刀を使える、という許可でもありません。

三文で語られるのは、極端な例です。実際の判断には、本文の外にある材料が要ります。権限、事実、他の手段、結果。どれも省けません。

私刑のすすめではありません

有名な一句だけを抜くと、危うい標語になります。「悪人なら殺してよい」。そこまで広げてはいけません。

原文には「一人の悪に依て萬人苦む」とあります。大勢の苦しみとの因果が前提です。嫌いな相手や、意見の違う相手ではありません。

さらに、巻頭では武器を不吉とします。使用を喜んでいません。やむを得ない場合です。

私的な復讐を命じる言葉もありません。処罰の制度も書かれていません。誰でも執行者になれるとは言えません。

歴史記事として守るべき範囲は明白です。必要な武力を結果から説明した三文です。現代の暴力を正当化する合言葉ではありません。

剣術書が天下の人数を語る

二人の立合だけを扱うなら、「万人」は大きすぎる言葉です。上巻の冒頭では、刀の働きが政治の規模まで広がります。

柳生宗矩は徳川政権に仕えました。兵法指南の立場にもいました。剣の働きと、秩序を治める話が近くにあります。

ただし、全ての技を政治理論へ変える必要はありません。『兵法家伝書』には、目付、心の病、拍子、先など、立合に即した教えも多くあります。

第一頁では、上巻の題名を大きな尺度で捉えます。殺す刀が、どうして活の側へ回るのか。万人という語が橋になります。

剣術と治国は同じではありません。それでも、宗矩の文章では隣り合います。そこが『五輪書』とは違う読み味です。

後書きの説明とは別の箇所です

『兵法家伝書』の末尾にも、殺人刀と活人剣の題名を説明する文章があります。そこでは乱世と治世を挙げ、二つの巻名を振り返ります。

今回の三文は、その後書きではありません。上巻の始まりです。同じ主題でも、位置が違います。

冒頭では、一人と万人の例を出します。末尾では、上下巻を読み終えた読者へ題名の心を説明します。

記事も分ける必要があります。既存の第一記事は末尾の巻名説明を扱いました。今回は第一頁の具体例です。

同じ句を繰り返してはいません。どこに置かれた言葉かを確かめると、役割の違いが分かります。

三文から言えないこと

一人を殺せば必ず大勢が助かる、とは言えません。三文では、そうなる場合を置いています。

「悪」の判定方法も分かりません。裁判や証拠の規則はありません。

目的がよければ、どんな手段でも許されるとも書かれていません。武器を不吉とする直前の文があります。

活人剣が優しく、殺人刀が残酷だという単純な二分もできません。殺人刀の冒頭に、すでに「人をいかすつるぎ」があります。

柳生新陰流の後世の教えを、この三文だけで決めることもできません。伝承の展開には別の史料が要ります。

判断を誤れば逆説は崩れます

一人が本当に大勢を苦しめている。その認定が正しい。殺せば被害が止まる。他の手段もない。

三文の逆説には、多くの条件が隠れています。一つでも崩れれば、刀は「人をいかす」と呼べません。

誤って罪のない人を殺したらどうか。苦しみが続いたらどうか。別の者が権力を奪い、さらに多くを害したらどうか。

原文は答えません。だからこそ、短い標語で判断を終えない方がよいのです。

逆説は免罪符ではありません。結果を引き受ける重い説明です。一人の死と万人の生。その因果を誤魔化せません。

短い句ほど、前提の確認が要ります

一人を殺し、万人を生かす。覚えやすい言葉です。短いから広まりました。

短さには代償もあります。判断までの道筋が省かれます。

現実の人には「悪」という札が付いていません。証言が食い違うこともあります。原因が一人に絞れない場合もあります。

殺した後に何が起きるかも確定しません。争いが終わるとは限りません。別の苦しみが始まるかもしれません。

そこで、標語を判断の出発点にしない方がよいのです。必要な条件を調べた後、初めて当てはまるかを考えます。

罪は確かか。原因は一人か。他の手段はないか。大勢は本当に助かるか。実行する権限はあるか。

冒頭三文には答えがありません。問いを省いた結論だけがあります。

結論が短いほど、読み手が問いを戻します。それで初めて、「人をいかすつるぎ」という名の重さを保てます。

殺と活を同時に読む

宗矩は、殺す刀を消しません。活人の剣と言い換えて終わりにもしていません。

一人を殺す。その結果、大勢を生かす。二つを続けて書きます。

近くの結果は死です。広い結果は生です。どちらかだけでは、冒頭三文を読んだことになりません。

「一人の悪」という認定には危険があります。「万人をいかす」という結果にも不確かさがあります。その両方を残します。

刀は刀のままです。問題は、誰に向け、なぜ使い、何が起きたかです。『兵法家伝書』の第一頁を読むと、刀の働きだけでなく、その責任まで考えることになります。

出典

柳生宗矩『兵法家伝書』上巻「殺人刀」冒頭。底本は福井久蔵編『秘籍大名文庫 第二』(厚生閣、一九三七年)一頁による。国立国会図書館の書誌には、編者、出版者、刊年、内容細目、永続的識別子10.11501/1074542が記録されている。同版の第一頁はパブリックドメイン画像により確認した。