甲陽軍鑑を読む · 03
「人は城」は信玄の言葉か——『甲陽軍鑑』の伝え方を読む
名言のすぐ前に「ある人が言う」とあります。書き手は「信玄が言った」とは書いていません。城、石垣、堀を人に置き換えた句の力と、その句が信玄に結びつくまでの距離を、両方読みます。
今回の一節の新規現代語訳
甲斐国の内に城郭を構えて備えることもなく、屋敷構えのままおられた。
ある人が言うには、信玄公の歌に、
人は城、人は石垣、人は堀。
情けは味方、仇は敵である。
原文
甲州のうちに城郭をかまへ用心する事もなく、屋敷がまへにて罷在。
或人の云ふ、信玄公御歌に、
人は城、人は石垣、人は堀。
情は味方、讎は敵なり。
語句の注
- 城郭
堀、土塁、曲輪などを備えた防御施設としての城。次の「屋敷がまへ」と対になります。 - 屋敷がまへ
住むための屋敷を中心にした構え。守りが皆無だった、という意味ではありません。城郭を築くことと比べています。 - 或人の云ふ
「ある人が言う」。名前のない伝え手を一人はさんで、歌を信玄に結びつけています。 - 情
情け、思いやり、人への気配り。ここでは、人を味方にする側に置かれています。 - 讎
仇、敵、敵意。人そのものだけでなく、敵対を生む関係も含みます。
名言より先に「或人の云ふ」を読む
「人は城、人は石垣、人は堀」は、武田信玄の名言として広く知られています。短く、同じ形がくり返され、意味もすぐつかめます。だから前後を切り落としても、標語として立ってしまいます。
ところが『甲陽軍鑑』の本文では、句の前に「或人の云ふ」とあります。書き手は「信玄公が言った」と断定していません。ある人の言葉として、信玄の歌を紹介しています。この四文字があるかないかで、出典の話はまるで変わります。
確かめられることを、三つに分けます。第一に、この歌が『甲陽軍鑑』品第三十九に載っている。第二に、本文はそれを信玄の歌として伝えている。第三に、信玄本人が同じ文言を作り、実際に口にした。引用箇所が支えるのは、第一と第二までです。
城から石垣、堀へ広がる反復
前半は「人は」を三度くり返します。人は城、人は石垣、人は堀。まず守り全体。次に壁。最後に外周の障害。だんだん細かくなります。人が城の中にいるのではありません。人そのものが、守りの一部品になっています。
このたとえが強いのは、建物を人に置き換えたからです。城は、そこに立っているだけです。命令を聞き分けません。敵の動きを知らせません。戦況に合わせて動きません。人は違います。判断し、知らせ、移動し、守るか逃げるかを選びます。守りの手ごたえが、物の厚さから、人の働きへ移ります。
とはいえ、城に値打ちがないと言った歌ではありません。城も、石垣も、堀も、守りとして頼りになる。だからこそ、そこへ人をなぞらえるたとえが効きます。建物を否定したのではありません。それほど大事な役目を人が担っている、という言い方です。
後半は人を味方にも敵にもする
「情は味方、讎は敵なり」で、前半のたとえに理由が付きます。人が城になるのは、人が黙って忠実な材料だからではありません。情けをかければ味方になる。恨みを買えば敵になる。関係の作り方しだいで、守りの向きが変わります。
石垣も堀も、築いた者に感情を持ちません。人は、待遇や信頼で動き方を変えます。前半で人を建物の部材にたとえておきながら、後半では、人が部材と違うと言う。この歌には、その小さな裏返しが入っています。
「情」を、いまの優しさだけに縮めることもできません。武家の主従では、恩賞も、気配りも、信頼も、統率も、まとめて受け取られます。「讎」も、外から来る敵だけを指すのではありません。敵対を生む関係そのものへ目を向けた語と読めます。
城郭を構えなかったという前置き
歌の前に、説明があります。信玄は甲州のうちに城郭を構えて用心することもなく、屋敷構えのままいた。歌はいきなり出てくるのではありません。この人物像に理由を付けるように続きます。
城郭に頼らずにいられたのは、人が城になったからだ。そういう筋です。家臣や領国の人々が守りを担う。信玄の威勢と統率が、敵を近づけない。『甲陽軍鑑』が作る信玄像のなかで、建物の簡素さが、人心をつかむ力に読み替えられています。
ただし第一行を、甲斐国内の城郭を全部調べた結果として扱うことはできません。品第三十九は、信玄の生涯を称える文脈にあります。この説明も、その評価の一部です。領国の防御施設の実際を確かめるなら、ほかの文献や考古学の資料に当たります。
同じ章は城を無視していない
「人は城」を文字どおりに取って、信玄は城を否定したと考えると、同じ章の記述と合いません。品第三十九には城取りの極意が挙がっています。堀、曲輪、土居、武者走り。構造が論じられています。信玄の城が敵に取られなかったことも、功績に数えられています。
つまり『甲陽軍鑑』は、城の使い道をよく知っています。守りの施設をきちんと評価しています。そのうえで、信玄自身の中心の守りだけを人に置き換えて称えました。この歌の狙いは、築城をやめることではありません。物の守りより上に、人のつながりを置くことです。
この文脈を残せば、「人は城」は建築を否定する標語ではなくなります。物だけでは守りが成り立たない、という武田家中心の人物評になります。
信玄最期の語りの中に置かれる
引用した箇所は、病に倒れた信玄の最期と遺言を長く語る部分にあります。その前後で、功績が積み上がっていきます。他人の力に頼らなかった。敵に城を取られなかった。家臣を統率した。
その流れのなかで、「人は城」の歌が信玄の統治と武勇を短くまとめます。城郭に頼らない。家臣が守る。情けが人を結ぶ。この三つが、覚えやすい句になって人物像に固まります。
史料として大事なのは、歌が信玄の思想をそのまま映しているかどうかだけではありません。後の武田家が、信玄をどんな大将として覚えておきたかったか。それも読み取れます。『甲陽軍鑑』は、出来事を並べるだけの本ではありません。理想の大将像を作る本です。
無名の「ある人」は何を残すか
「或人」の名前も、立場も、信玄との近さも、いつ歌を聞いたかも書かれていません。伝わってきた道筋を追うには、情報が足りません。足りない部分を、想像で特定の家臣や場面に結びつけないことです。
その一方で、書き手が仲介者を残したことには意味があります。歌をそのまま信玄の直言とせず、誰かがそう言った、という形を保ちました。歌はすでに口伝や評判として出回っていたのかもしれません。ただし最初の形までは分かりません。
伝わり方が不確かでも、歌の値打ちは消えません。むしろ、言葉がどうやって人物と結びつき、覚えられていくのか。その材料になります。短く整ったくり返しは覚えやすく、前後の説明を置き去りにして広がります。その結果、いまでは「或人の云ふ」より「人は城」のほうが、はるかによく知られています。
「御歌」と呼ばれる形
本文は「信玄公御歌に」と紹介します。短い句を歌として扱い、三度のくり返しと、最後の対句で整えます。形がはっきりしているぶん、覚えやすく、口で伝えやすい。
けれども「御歌」と呼ばれていることと、作者の自筆や同時代の記録が確かめられたことは、別です。分かるのは、品第三十九がその言葉を信玄の歌という形で伝えている、ということまでです。誰の作かという証拠と、誰の作として伝えられた形は、分けます。
紹介するときは、「信玄は言った」と断定するより、「『甲陽軍鑑』は、ある人が信玄の歌として伝えたと記す」。こう書くほうが、原文の形をそのまま残せます。
屋敷構え、ある人、人は城——ここから先は分からない
第一に、信玄がこの言葉を作ったという証明にはなりません。「或人の云ふ」という伝聞の枠がある以上、本人の発言だと確定するには、別の同時代資料が要ります。
第二に、甲斐国に城郭や防御施設がなかった、とも言えません。第一行は信玄の用心と住まいを称える文脈にあります。領国の施設を数え上げた一覧ではありません。
第三に、武田家の人間関係がいつも情けで結ばれ、対立がなかった、とも言えません。歌は理想と評価を伝えます。領国で暮らした人々の経験を、四句に収めることはできません。
第四に、現代の組織運営にそのまま使える経営格言でもありません。分かりやすいたとえではあります。それでも、武家の軍記が大将の守りと主従関係を語った言葉。この位置は手放しません。
名言を伝承の形ごと引用する
「人は城」は、出典を慎重に読んでも力を失いません。人を城に、石垣に、堀にたとえる。情けと仇を、味方と敵に分ける。この組み立てを見れば、なぜ長く覚えられてきたかが分かります。
ただし正確に引くなら、導入も一緒に残します。『甲陽軍鑑』品第三十九は、「ある人が言う」として、この歌を信玄のものとしています。名言だけを取り出さない。その名言がどうやって手元まで届いたかを示す一文まで読む。それが原典に即した引用です。
出典
『甲陽軍鑑』巻十二、品第三十九、信玄の最期を語る中で紹介される歌。底本は温故堂刊本(明治二十五・二十六年)、国立国会図書館デジタルコレクション・画像百五十九コマ。版の系統については国文学研究資料館・CODHの書誌が、明暦二年(一六五六)京都刊、二十三冊・二十巻の版を記録している。