信長公記を読む · 01

桶狭間は「奇襲」だったのか——『信長公記』の雨と突撃

突然の雨が勝敗を決めたのでしょうか。『信長公記』は、雨、空の晴れ、信長の命令、敵の崩れを続けて書きます。ただしこの順番で読むと、後世の「奇襲」像とはずいぶん違います。

今回の一節の新規現代語訳

突然の激しい雨が、石や氷を投げつけるように敵の顔へ打ちつけた。味方には背後から降りかかった。
空が晴れたのをご覧になると、信長は槍を取り、大声を上げて「さあ、かかれ、かかれ」と命じた。
黒い煙を立てて攻め寄せる姿を見て、敵は水をまいたように、後方へ一気に崩れた。

『信長公記』首巻 第二十四「今川義元討死之事」。桶狭間の合戦を記す段で、雨がやみ、空が晴れ、信長が突撃に移るまでを続けて書く箇所です。

原文

俄に急雨、石氷を投げ打つ様に敵の面に打ち付くる。味方は後の方に降りかかる。
空晴るるを御覧じ、信長、鎗をおっ取りて大音声を上げて、「すは、かかれ、かかれ」と仰せらる。
黒煙立てて懸かるを見て、水をまくるが如く、後口へくわっと崩れたり。

『信長公記』首巻 第二十四「今川義元討死之事」の三文。甫喜山景雄刊『我自刊我書』巻之上(一八八一年)、国立国会図書館デジタルコレクション・画像十六〜十七コマにより、句読点を補い繰返し符号を開きました。

語句の注

  • 俄に急雨——突然の激しい雨。本文は、その降る向きを敵と味方で書き分けています。
  • 石氷——石や氷のように打ちつける激しさを言う語。
  • すは——人を動かすときの掛け声。「今だ」「さあ」に近い働きです。
  • 黒煙——本文の表記は黒い煙。何が立った煙なのか、引用だけでは決められません。
  • 後口——後方、退路の側。

『信長公記』の桶狭間は何を順に書くか

桶狭間の戦いは、「少数の信長軍が豪雨にまぎれて今川軍を奇襲した」と一文で語られます。ところが引用した場面をそのまま追うと、雨のなかを密かに襲った、という話にはなりません。急雨が降る。空が晴れる。信長が命令する。軍勢がかかる。敵が崩れる。この順です。

順番は細かい話ではありません。「空晴るるを御覧じ」と、信長が動く直前に天候の変化が置かれています。少なくとも引用の範囲では、雨と突撃命令は同時ではありません。晴れたのを見た。それが命令につながっています。後世の要約を先に置かず、まず本文が並べた順に読みます。

雨は敵味方に同じように降っていない

この場面で面白いのは、雨の激しさだけではありません。敵には顔へ打ちつけ、味方には後ろから降りかかった。降る向きが書き分けてあります。同じ雨でも、向きが違えば受け方も違う。そういう場面です。敵の視界や姿勢に不利だったと想像はできますが、被害の数も混乱の度合いも、本文に数字はありません。

「石氷を投げ打つ様に」は、雨の激しさを目と痛みに訴えるたとえです。ただしこのたとえを、雹が降ったという気象の記録に読み替えることはできません。伝わっているのは、敵の顔へ強く打ちつける雨として、この場面が記憶され、書かれた。そこまでです。天候をきちんと復元するなら、別の記録や気象史料が要ります。

信長の命令は「空晴るる」の後に置かれる

雨のあと、話は信長の動作に移ります。空が晴れたのを見て、槍を取り、大声で二度「かかれ」と命じる。突撃が自然に始まったのではありません。見て、決めて、命じた。そのあとに軍勢が動いています。槍を取る動作と、あの大音声。攻撃の始まりを、大将自身が知らせています。

ここから「信長は雨を予測して待っていた」とまでは言えません。天候が変わったのを見た、とは書いてあります。その雨をあらかじめ計画に組み込んだ、とは書いてありません。起きた変化に応じて命じることと、変化を予知していたことは、別です。史料が黙っている部分を、名将の逸話で埋めないようにします。

「黒煙」と敵方の崩れ

攻めかかる軍勢には「黒煙立てて」という言葉が添えてあります。地面から上がる土煙を思い浮かべますが、原文は黒煙です。本記事の現代語訳では、その形を残しました。何が生んだ煙かは決めません。それより大事なのは、次の一句です。敵は攻撃を「見て」崩れました。

崩れ方は「水をまくるが如く」とたとえられます。撒いた水がさっと広がるように、後ろへ引いた。速い動きです。ただしこの一文に、今川軍全体の地形も、各部隊の配置も、崩れ始めた正確な場所も出てきません。速さと向きを伝える文章であって、戦場の地図ではありません。

原文に「奇襲」と書かれているのか

引用した三文に、「奇襲」という語はありません。谷間を密かに進んだ、敵の背後へ回った、雨音で足音が消えた。そういう説明もありません。書いてあるのは、敵の顔を打つ雨。空が晴れる変化。正面から響く命令。攻め寄せる姿を見た敵が崩れたこと。これだけです。この一節を「雨中の隠密な奇襲」の直接の証拠にはできません。

かといって、桶狭間に予想外の攻撃はなかった、と逆に決めつけることもできません。「奇襲」は、何を基準にするかで意味が変わる言葉です。敵が攻撃の時刻を読めなかった。経路に気づかなかった。背後から襲われた。どれも同じではありません。本文が支えている具体的な記述と、後世の分類語は分けて扱います。

雨は勝因だったのか

文章の上で、雨は突撃の直前に置かれた大事な条件です。しかも敵の顔へ打ちつけ、味方には後ろから降る。両軍に違う影響を与えた場面として描かれています。けれども「雨が勝敗を決めた」と一つの原因にまとめてしまうと、本文にある信長の判断も、命令も、軍勢の突進も、敵の反応も消えます。

歴史記録の並びは、原因を考える手がかりになります。ただし、隣り合って書かれた出来事が、必ず原因と結果とは限りません。三文から言えるのは、太田牛一が急雨と晴れを攻撃開始の直前に置き、崩れるところまでを一続きの場面として書いた。それだけです。勝った理由を全部挙げるなら、引用の前後と、ほかの史料まで調べます。

雨、晴れ、命令、崩れ——ここから先は分からない

まず、信長軍と今川軍の人数は、この引用にありません。兵力の差を示す数字は出てきません。次に、今川義元の最期がどうだったかも、三文の外です。節の題は「今川義元討死之事」ですが、引用したのは天候から崩れの始まりまでです。

雨が偶然だったのか。信長が利用しようと考えていたのか。攻められた側はどれくらい警戒していたのか。どれも、この一節では決まりません。描写が強いからこそ、書いてあることと、そこから先の推測の境目をはっきりさせます。

出典

太田牛一『信長公記』首巻 第二十四「今川義元討死之事」。底本は甫喜山景雄刊『我自刊我書』巻之上(一八八一年)、国立国会図書館デジタルコレクション・画像十六コマから十七コマに続く。