信長公記を読む · 04
『信長公記』の比叡山焼き討ち——「灰燼の地」と記された四行
比叡山焼き討ちの記録には、建物の焼失だけでなく、裸足で逃げる男女や子供、追って山を登る兵も書かれています。人物評を急ぐ前に、太田牛一が九月十二日の出来事をどんな順で記したかを確かめます。
今回の一節の新規現代語訳
九月十二日、軍勢は比叡山を包囲した。根本中堂や山王二十一社をはじめ、霊仏、霊社、僧坊、経巻を残さず、一棟も残らないほど一度に雲霞のように焼き払い、辺りは灰の野となった。何とも痛ましい。
山の下にいた男女、老人、子供は、うろたえて右往左往した。持ち物を手に取る暇もなく、みな裸足で八王子山へ逃げ上り、社の中へ逃げ込んだ。
兵たちは四方から鬨の声を上げ、山を攻め上った。
僧侶も俗人も、子供も、学識のある者も高僧も、一人ずつ首を切られ、信長の前に差し出された。
原文
九月十二日、叡山を取詰め、根本中堂、三王二十一社を初め奉り、霊仏霊社、僧坊、経巻残らず、一宇も一時に雲霞の如く焼き払い、灰燼の地となるこそ哀れなれ。
山下の男女老若、右往左往に癈忘し、取る物も取り敢えず、悉く裸足にて八王寺山へ逃げ上り、社内へ逃げ籠る。
諸卒、四方より鬨の声を上げて攻め上る。
僧俗児童、智者上人、一々に頸を切り、信長の御目に懸く。
語句の注
- 取詰め
周囲を押さえ、逃げ道を塞ぐように包囲すること。 - 根本中堂
延暦寺の中心となる堂。焼けた場所の列挙では最初に挙げられています。 - 三王二十一社
山王二十一社。本文では堂、社、僧坊、経巻が続けて並びます。 - 癈忘
うろたえ、平静を失うさま。ここでは山下の人々の混乱をいいます。 - 智者上人
学識のある者と高僧。僧俗、児童と並べて書かれています。
九月十二日、最初に焼けた物が並ぶ
太田牛一は、まず日付を書きます。九月十二日です。続いて比叡山を包囲したと記し、焼けた物を列挙します。根本中堂。山王二十一社。霊仏と霊社。僧坊。経巻。建物だけではありません。信仰の対象、住まい、書物まで入っています。
「一宇も」という語も重い。宇は建物を数える言葉です。本文では、一棟も残らないほど焼いたとまとめています。史跡を調査して残存状況を数えた報告ではありません。焼失の広さを強く言い切った叙述です。文字どおりの全焼範囲を決めるには、別の記録や遺構も調べる必要があります。
雲霞のように燃え広がり、灰の野になった。そこで「哀れなれ」と続きます。短い言葉です。しかし、単なる作戦記録では終わりません。牛一は焼失を痛ましい光景として書き留めています。
人々は裸足で八王子山へ走った
焼失の次に来るのは避難です。山の下には男女がいました。老人も子供もいました。皆が右往左往し、持ち物を取る暇さえなかったとあります。そして裸足でした。
ここを読み飛ばすと、焼き討ちは堂塔と軍勢だけの話になります。けれども牛一は、逃げる人々を一行使って追っています。向かった先も書きました。八王子山です。さらに社内へ逃げ込んだと続きます。
避難先は安全ではありませんでした。兵は四方から鬨の声を上げ、山を登ります。逃げる者は下から上へ。追う者は四方から上へ。この動きが続けて置かれています。地図のような詳しい配置はありません。それでも、逃げ道が狭まる様子は読めます。
「僧俗児童」を三つに分けて読む
殺された者について、本文は「僧俗児童」と書きます。僧だけではありません。俗人もいます。児童もいます。三者を分けて読まなければなりません。
その後に「智者上人」が来ます。学識のある者、高僧です。身分や学識によって助けられたとは書いてありません。一人ずつ首を切られ、信長の前に差し出されたとあります。ここまでが引用した四行から確かめられる範囲です。
「御目に懸く」は、切った首を信長に見せたという記述です。信長が殺害の一部始終をその場で見た、とまでは書いてありません。誰がどこで命令を受けたのかも不明です。確かに読めるのは、殺害の後に首を差し出したことまでです。
一方、俗人がどんな立場だったのかは分かりません。山で働く者、住民、従者など、いくつもの可能性があります。児童の年齢も記されていません。名前もありません。原文にない身元を補えば、かえって記録から離れます。
「哀れなれ」を消してはいけない
『信長公記』は、信長の動きを日付順に追う記事が多い書物です。合戦、恩賞、普請、進発。簡潔に進む箇所も少なくありません。ところが比叡山では、灰燼の地となった直後に「哀れなれ」と書きます。
これは牛一の声です。少なくとも、焼け跡を痛ましいと語っています。ただし、この一語だけで牛一の信長評をすべて決めることはできません。ほかの記事では信長の働きを称えることもあります。同じ書き手が、別の場面では違う調子を選ぶ。その変化を残したまま読むほうがよいでしょう。
少し後には「目も当られぬ有様」ともあります。見るに堪えない状態だったという言葉です。今回は引用を四行に絞ったため、そこまでは原文欄に入れていません。それでも第五段全体を読む際には、牛一が惨状をどう語ったかを見落とせません。
前段には攻撃の理由が書かれている
第五段は、いきなり炎から始まりません。前年の志賀の陣を振り返ります。信長は山門側に対し、味方をするか、難しければ中立を守るよう求めたとあります。背けば根本中堂や山王二十一社を焼くとも告げました。さらに牛一は、山門の僧衆が浅井・朝倉方に加担したと非難しています。
これが本文内の理由づけです。攻撃側がなぜ行動したかを知る手掛かりになります。だからといって、九月十二日の結果が消えるわけではありません。理由の説明と、起きたことの記録は分けて読む必要があります。
また、前段の非難をそのまま裁判の判決のように扱うこともできません。書いているのは同じ『信長公記』です。山門側の行動を詳しく確かめるなら、別の史料が要ります。ここでは、牛一が攻撃前にどんな説明を置いたかまでにとどめます。
死者数は四行だけでは決められない
引用した範囲には死者数がありません。「一々に頸を切り」とあるだけです。その後には「数千之屍」と続きますが、名簿を数えた数字ではありません。多数の死体が重なった惨状を語る表現として、慎重に扱うべきでしょう。
数百人だったのか。数千人だったのか。四行では決まりません。伝本の違い、同時代の記録、後世の記述、遺構の調査まで比べて、ようやく検討できます。短い記事で断定すれば、原典を読んだことにはなりません。
ただし、人数が分からないから何も言えないわけでもありません。男女老若が逃げたこと。僧俗児童が殺害の対象として並ぶこと。四方から攻め上ったこと。これらは、使用した刊本に明記されています。確かな部分と未確定の部分を分ければよいのです。
数字がない箇所に数字を足さない。大きな出来事ほど、この基本が大切です。被害を軽くするためではありません。反対に、痛ましさを強めるための誇張も避けます。人数を断定できなくても、逃走と殺害を記した語は消えません。
「残酷な信長」の一言で閉じない
比叡山の焼き討ちは、信長の残酷さを語る材料として使われがちです。反対に、軍事上の必要だけを強調し、被害の記述を小さく扱う説明もあります。どちらも先に結論を置くと、牛一が選んだ言葉が読めなくなります。
人物を一語で決めるより、まず動詞を拾います。包囲する。焼き払う。逃げ上る。攻め上る。首を切る。どれも原文にあります。次に、対象を拾います。堂、社、僧坊、経巻。男女老若。僧俗児童。智者上人。ここまで具体的に読んでから、評価に進むべきです。
宗教一般について語る材料でもありません。比叡山という場所、元亀二年の対立、信長方と浅井・朝倉方の戦い。その中で起きた出来事です。歴史上の位置を外し、現代の宗教観へ直結させるのは避けます。
灰燼、裸足、四方、僧俗児童
長い説明を読んだ後でも、残る語は少数です。灰燼。裸足。四方。僧俗児童。牛一は場所と人を次々に変えながら、山全体へ視野を広げました。
焼けた建物だけではない。逃げた人だけでもない。攻めた兵だけでもない。それらが同じ日付の下に並びます。比叡山焼き討ちを原典から読むとは、この並びを崩さず受け取ることです。
そこから先は、別の史料が必要です。死者数、焼失範囲、個々の身元、軍事的な判断。調べるべき問いは残ります。まずは『信長公記』が明記した四行と、そこに書かれなかったことを分けておきます。
出典
太田牛一『信長公記』巻四、第五段「叡山御退治之事」、元亀二年九月十二日条。底本は甫喜山景雄刊『我自刊我書』上巻(一八八一年)、国立国会図書館デジタルコレクション、画像三十五コマ。目録では巻四第五段、年次は元亀二年と記されている。