信長公記を読む · 05

『信長公記』の三間道——信長はなぜ道幅を定めたか

天正三年の巻は、長篠の合戦から始まりません。前年末に命じられた道普請から始まります。三間という幅だけでなく、川、坂、木、掃除、関所まで並ぶ記事です。

今回の一節の新規現代語訳

前年も押し詰まったころ、国々の道を造るよう命令が出ました。坂井文介、高野藤蔵、篠岡八右衛門、山口太郎兵衛の四人が奉行を命じられ、朱印をもって分国中に触れられました。
ほどなく正月中に完成しました。川には舟橋を設け、険しい道を平らにし、石を取り除いて大道としました。道幅は三間とし、主な道の左右には松と柳を植えました。
所々の老若が出て、水をまき、ほこりを払い、掃除をすることとされました。以前から分国中に数多くあった関所や諸役を免除したため、道中の滞りは少しもありませんでした。

『信長公記』巻八、第一「御分国道作被仰付事」の書き出しです。前年末の命令から、正月の完成、沿道の維持、以前の関所免除へ進む段です。この後は人馬の往来と信長への賛辞が続きます。

原文

一、去年月迫に国々道を可作の旨、坂井文介、高野藤蔵、篠岡八右衛門、山口太郎兵衛、四人為御奉行被仰付、御朱印を以て御分国中御触在之。
無程正月中出来訖。江川には舟橋被仰付、嶮路を平らげ、石を退て大道とし、道の広さ三間に、中路辺の左右に松と柳植置。
所々の老若罷出、濺水、払微塵、致掃除候へキ。先年より御分国中数多在之諸関諸儀等被成御免所以、路次の滞聊以無之。

『信長公記』巻八、第一「御分国道作被仰付事」冒頭の三行、句読点と空白を除いて百五十四字です。甫喜山景雄刊『信長公記』中巻(明治十四年)、国立国会図書館デジタルコレクション・画像四コマにより、句読点と改行を整えました。

語句の注

  • 月迫
    月の終わりが迫ることです。ここでは前年の暮れを指します。
  • 奉行
    特定の仕事を担当し、実施を取り仕切る役です。本文では四人の名が挙がります。
  • 三間
    道幅の規格です。一間を後世の一般的な換算で測れば三間は五メートル余りですが、時代や場所による違いがあるため、原文にない精密さは加えられません。
  • 舟橋
    舟などを浮かべ、その上を渡れるようにした橋です。
  • 諸関諸儀
    各地の関所と、それに伴う負担や取り扱いです。本文では免除によって往来の滞りがなくなったと語られます。

天正三年の最初に書かれた仕事

巻八は天正三年、一五七五年の記事です。同じ巻には長篠の合戦があります。ところが最初に置かれたのは、道を造る命令でした。

命令は前年の暮れに出ています。年が改まる前です。四人の奉行が選ばれ、朱印で分国中へ触れられました。正月には完成したと続きます。

かなり短い日程です。ここで分かるのは、『信長公記』がそう書いたことまでです。道ごとの工期はありません。働いた人数もありません。費用も記されません。

命令と完成が近く置かれます。素早く成し遂げた話として読めます。ただし工事報告書ではない。その違いを残しておきます。

四人の奉行は何を任されたのか

坂井文介、高野藤蔵、篠岡八右衛門、山口太郎兵衛。本文は四人の名を並べます。道が自然に出来上がったとは書きません。

朱印をもって触れたのは上からの命令です。その命令を現地の工事へ移す人が要ります。どの道を直すのか。人をどこから出すのか。舟橋や木をどう用意するのか。奉行には調整する仕事があったはずです。

ただし、担当区域までは分かりません。四人が同じ場所で働いたのか。地域を分けたのか。それも書かれていません。

名が残ること自体は大切です。命令者だけでなく、実施を担う役がいた。道普請は一人の思いつきでは進みません。

道幅を三間と決める

「大道」と呼ぶだけなら、広い道という印象で終わります。巻八では、広さを三間とします。数字があります。

一間を約一・八メートルとすれば、三間は五メートル余りです。ただし、近世までの間は一つの長さで固定されていません。地域や用途でも違います。小数点まで換算すると、史料以上に正確な数字へ見えてしまいます。

安全に言えるのは、監督できる幅を定めたことです。現場で「広くせよ」だけでは、人によって出来上がりが変わります。三間なら、目安を共有できます。

すべての道が本当に同じ幅だったかは別です。山道もあります。家が並ぶ場所もあります。古い道筋もあったでしょう。原文は規格を語ります。現地の完成幅を測った記録ではありません。

川、坂、石を一度に扱う

道幅の前には舟橋が出ます。川を渡れなければ、その先の道が広くても進めません。険しい所は平らにする。石は取り除く。障害を一つずつ減らします。

川と陸は別の仕事に見えます。旅をする人には一つです。出発してから目的地まで、途中で止まらないことが大切です。

舟橋は固定した石橋とは違います。水量や流れの影響を受けます。維持も要るでしょう。本文は設置後の管理まで書きません。

それでも、道を地面だけで考えていないことは分かります。渡河も含めて往来です。坂も石も含まれます。

松と柳を植えた理由は書かれない

主な道の左右には、松と柳を植えます。切って材木にする話ではありません。道の脇に残す木です。

何のためでしょうか。木陰かもしれません。道筋の目印かもしれません。土を保つ役目も考えられます。見栄えもあります。

しかし原文は答えません。一つに決めることはできません。

植えるという仕事には先があります。苗木なら、すぐ大木にはなりません。道を一度通れるようにして終わるのではなく、その後の姿まで考えた命令だったと読めます。

どれほど育ったか。どの区間に植えたか。残った木があるか。三行からは分かりません。木の名と場所だけを確かめます。

老若が水をまき、掃除をする

完成後には、所々の老若が登場します。水をまく。ほこりを払う。掃除をする。短い動作が続きます。

道は使えば汚れます。乾けば土ぼこりが立ちます。石も枝も落ちます。造った日だけでは保てません。

四人の奉行は名を残しました。掃除する人々の名はありません。沿道の住民が繰り返し働くことを求められています。

自発的な奉仕だったとは書けません。「候へキ」とあります。そうするよう定められた仕事です。きれいな道の裏には負担もあります。

どの家から何人出たのか。何日に一度だったのか。免除はあったのか。本文にはありません。道の維持を沿道へ任せたことだけが分かります。

関所をなくせば道は通れるのか

三行目の後半では、以前から数多くあった関所や諸役を免除したと振り返ります。道普請より前の施策です。

道が平らでも、関所で止められれば時間がかかります。負担を求められることもあります。反対に、関所を免除しても、川を渡れず、坂で荷車が止まれば進めません。

巻八では、二つを合わせます。道の形を直す。通行を止める仕組みも減らす。その結果、路次の滞りが少しもないと語ります。

ただし、すべての関所が永久になくなった証拠ではありません。『信長公記』の評価をそのまま全国の実態へ広げることはできません。分国中という範囲も、時期によって変わります。

善政をたたえる文章として読む

引用の後では、人馬の往来が楽になり、万民が穏やかに通ったと続きます。信長の命令をほめる言葉も重なります。

中立の帳簿ではありません。太田牛一は、道普請を信長の治世の功績として語ります。

だからといって、四人の名や三間の数字を捨てる必要はありません。具体的な記録と賛辞は同じ記事に入っています。分けて読めばよいのです。

命令があった。奉行が任じられた。道幅が書かれた。舟橋、松柳、掃除、関所免除が並ぶ。ここまでは本文から確認できます。

誰もが喜んだ。どこにも滞りがなかった。その部分は、著者の評価を含みます。住民の負担や不満を調べるなら、別の史料が要ります。

原文三行から言えないこと

第一に、造った道の総延長は分かりません。国名や区間も、この三行では特定されません。

第二に、舟橋の数も分かりません。川ごとの工法や長さもありません。

第三に、全区間が三間幅で完成したとは断定できません。三間は本文が記した規格です。現地の測量結果ではありません。

第四に、信長が道幅や並木を初めて考えたとも言えません。道を整え、関を管理する仕事は、他の時代や権力にもありました。

第五に、道普請が長篠の合戦だけを目的にしたとも書かれていません。同じ巻に合戦があっても、二つを直接結ぶ文はありません。

道は造ってからも続く

命令を出す。奉行を置く。川を渡せるようにする。坂を平らにする。石を除く。幅を決める。木を植える。水をまく。掃除する。関所の負担を免じる。

多くの仕事が三行に入っています。

三間という数字だけを抜き出すと、道路規格の記事になります。老若の掃除まで読むと、維持の話へ変わります。関所免除まで読むと、通行の制度も加わります。

道は土木だけではありません。命令と役目があります。沿道の労働もあります。通る人を止める仕組みも関わります。

巻八は、合戦の前にこの道を置きました。読者は整えられた道を通り、その先の記事へ進みます。

出典

『信長公記』巻八、第一「御分国道作被仰付事」冒頭。同節は前年末の道作り命令、四人の奉行、正月の完成、道の維持を語り、その後に人馬の往来と信長への賛辞を置く。底本は甫喜山景雄刊『信長公記』中巻(明治十四年)、国立国会図書館デジタルコレクション・画像四コマ。岡山大学図書館池田家文庫には、太田牛一自筆の『信長記』十五巻十五冊(貴-48)があり、巻八を含む。