信長公記を読む · 06

信長は天主完成前に安土へ移った——『信長公記』巻九

天正四年の安土山では、普請の開始、信長の移住、石垣と天主の工事が別の日付で続きます。完成した城への入城ではありません。造りながら住み始めた経過です。

今回の一節の新規現代語訳

正月中旬から近江国の安土山で普請が始まり、惟住五郎左衛門に担当を命じました。
二月二十三日、信長は安土に着き、住まいを移しました。

『信長公記』巻九、第一「安土御普請之事」の書き出しです。正月中旬の担当者任命から二月二十三日の移住へ進み、この後に褒美、山下の屋敷、四月からの石垣と天主の工事が続きます。

原文

正月中旬より江州安土山御普請、惟住五郎左衛門に被仰付。
二月廿三日安土に至而、信長、被移住座。

『信長公記』巻九、第一「安土御普請之事」冒頭の二行、句読点を除いて三十八字です。甫喜山景雄刊『信長公記』中巻(明治十四年)、国立国会図書館デジタルコレクション・画像十三コマにより、句読点を整えました。

語句の注

  • 江州
    近江国のことです。安土山は現在の滋賀県近江八幡市にあります。
  • 普請
    人を動員して進める建築や土木の仕事です。天主だけを指す語ではありません。
  • 惟住五郎左衛門
    丹羽長秀のことです。本文は当時の名乗りで記します。
  • 移住座
    住まいを移した、というほどの語です。城内の全工事が終わったとは書かれていません。
  • 天主
    巻九の続きを見ると、四月一日からの工事で初めて出ます。二月の移住より後です。

「完成してから入る」ではない

城へ移ると聞くと、工事の完成を思い浮かべます。建物が整う。披露の日が来る。そこで城主が入る。そんな順番です。

巻九の安土は違います。正月中旬に普請を始めます。二月二十三日には信長が移ります。ところが石垣と天主の話は四月からです。

移住は完成日ではありません。工事の途中に置かれた日付です。

この違いを残すと、安土城の姿も変わります。最初から一つの完成品があったのではありません。住む場所ができる。家臣の屋敷を置く。石を積む。職人を集める。順に広がります。

正月中旬、丹羽長秀へ任せる

最初の行には、場所と担当者が並びます。場所は安土山です。担当は惟住五郎左衛門。丹羽長秀です。

信長が自分で工事をしたとは書きません。命令を受け、取り仕切る人がいます。普請は多くの人を動かす仕事です。現場をまとめる役が欠かせません。

ただし、二行だけでは権限の範囲まで分かりません。縄張りを誰が決めたのか。費用を誰が扱ったのか。職人へ誰が指図したのか。細かな分担は出ません。

丹羽長秀に任せた。安全に言えるのはそこまでです。後世の城郭像から、設計者の仕事をすべて一人へ集めないようにします。

二月二十三日、信長が移る

普請を始めてから、次の日付は二月二十三日です。信長が安土へ来ます。そして住まいを移します。

何日かけて移ったのかは書かれません。荷物の量もありません。何人が同行したかも分かりません。

それでも、安土がすでに使える場所だったことは分かります。少なくとも信長が住み始められる所まで進んでいました。

山全体が完成していたとは限りません。生活できる範囲と、工事中の範囲が同時にあったのでしょう。本文の続きは、その読み方に合います。

住み始めることで、工事への確認も早くなります。命令を出す場所も安土になります。ただし、二行にはその効果まで書かれていません。推測と記録を分けます。

褒美の茶碗は何を語るか

引用の直後では、先の普請が信長の意にかなったと続きます。丹羽長秀は褒美を受けました。名物の周光茶碗です。

茶碗の名まで残ります。金額はありません。贈呈の儀式もありません。けれども、信長が最初の仕事を評価したことは分かります。

ここでも完成と評価を分ける必要があります。褒美が出たから、城全体が完成したわけではありません。初めの段階が望みどおりだった。だから褒美を与えた。後にはまだ工事が続きます。

名物を与えることは、品物だけの話ではありません。誰の働きを認めたのかが公になります。担当者の名と褒美を続けて置くことで、功績の帰属がはっきりします。

山下に家臣の屋敷を置く

さらに、馬廻の家臣へ山下の屋敷が与えられます。各自が自分の場所を普請するよう命じられました。

信長一人の住まいだけではありません。家臣も移る準備をします。山下に屋敷が並べば、日々の奉公や警固にも関わります。

工事の担い手も一つではありません。丹羽長秀が全体を担当します。家臣は自分の屋敷を普請します。その後、各地の武士と都市の職人も呼ばれます。

誰もが同じ仕事をしたのではありません。住まいを造る人がいる。石を扱う人がいる。瓦を焼く人もいる。安土は役割の違う人を集めていきます。

四月から石垣と天主へ進む

四月一日になると、記述の規模が大きくなります。山の大石で石垣を築く。内側には天主を造る。そのために人を呼び集めます。

尾張、美濃、伊勢、三河、越前、若狭、畿内の武士が挙がります。京都、奈良、堺の大工や諸職人も来ます。瓦焼きの一観という人の名もあります。

大石は周りの山々から運ばれます。石奉行の名も記されます。人数をかけて石を上げた話も続きます。

二月の移住時には、天主の工事はまだ記事へ出ていません。四月からです。完成した天主へ信長が入った、と二行を読むことはできません。

先に住む。後から大工事を進める。巻九では、その時間差が日付で分かります。

年月日が工事の段階を分ける

正月中旬。二月二十三日。四月一日。三つの時点があります。

正月には担当を決めます。二月には信長が住みます。四月には石垣と天主へ進みます。

日付があるため、順番を入れ替えずに読めます。城の見た目だけを追うと、天主が中心になります。年月日を追うと、まず住まいと指揮の場所があったことに気づきます。

ただし、日付の間に何があったかは細かく書かれません。雨の日もあったでしょう。資材を待つ日もあったでしょう。そうした毎日は記録の外です。

太田牛一は、節目を選んで並べます。工事日誌ではありません。だから書かれた日付を大切にし、空白を物語で埋めないようにします。

原文二行から言えないこと

第一に、二月二十三日の建物の姿は分かりません。部屋数も、壁も、屋根も、守りの設備も書かれていません。

第二に、安土山に以前の建物が全くなかったとは言えません。二行は、この年の普請開始を語ります。山の全時代を調べた文章ではありません。

第三に、天主の完成日は決められません。引用範囲には天主という語もありません。

第四に、丹羽長秀がすべてを設計したとは断定できません。担当を命じられたことと、設計の細部を一人で決めたことは別です。

第五に、移住の理由を一つへ絞れません。政治、交通、軍事、生活など多くの説明が考えられます。しかし二行が記すのは、普請と移住の日付です。

住みながら造る安土

安土城と聞けば、華やかな天主が先に浮かびます。巻九の書き出しには、まだ天主がありません。

あるのは安土山、丹羽長秀への命令、信長の移住です。短い。けれども順番は明確です。

その後、褒美が出ます。家臣の屋敷を置きます。四月から石垣と天主へ進みます。工事は続きます。

信長は、完成品を受け取ってから安土へ入ったのではありません。安土を使い始め、その周りで普請が広がりました。

二行を日付どおりに読む。それだけで、城は一日に出来上がるものではないと分かります。人が住み、命令し、働きながら形を変えていく場所でした。

完成図を先に置かない

安土城の完成した姿は強い印象を残します。その姿から逆に読むと、正月の着工も二月の移住も、最初から決まった工程の一部に見えます。けれども、巻九は完成図を掲げて始まりません。担当者を決めた日、信長が移った日、褒美を与えた日、家臣の屋敷地を定めた日、石垣へ進んだ時期を分けて記します。

そこで、各日付を同じ出来事へ溶かさずに読みます。二月二十三日の段階で何階までできていたかは、冒頭の二行からは分かりません。一方、工事の開始と居住の開始が重なったことは分かります。これは小さな結論です。ただし、原文の順番に根拠があります。

移住という語の重み

原文は信長が安土へ「移住」したと書きます。立ち寄った、見物した、工事を命じた、とは書きません。生活と政務の場所を移す動きとして記録しています。ここを読み落とすと、安土は建物だけの話になります。移住を軸に置けば、人が先に入り、周囲の屋敷や工事が続く過程として読めます。

ただし、移住の一語から日々の暮らしを細かく復元することはできません。誰が同行したか、どの建物を使ったか、滞在が毎日続いたかは別の史料が要ります。語の意味を狭く守るほど、確かな点と不明な点を分けられます。

短い記事が残した時間差

太田牛一は長い説明を加えません。正月中旬と二月二十三日を並べます。その間には一か月余りがあります。読者は、その時間差を消してはいけません。普請を命じた直後に完成したのでも、完成後に初めて移ったのでもありません。

短い記事は、建設の全工程を教えません。その代わり、開始と移住を別々の日付へ固定します。安土を一夜で現れた城として扱わず、住まいと工事が重なりながら形になった場所として考える手掛かりです。

出典

『信長公記』巻九、第一「安土御普請之事」冒頭。同節は正月中旬の普請開始、二月二十三日の移住、丹羽長秀への褒美、家臣屋敷を語り、四月一日から石垣と天主の工事へ進む。底本は甫喜山景雄刊『信長公記』中巻(明治十四年)、国立国会図書館デジタルコレクション・画像十三コマ。岡山大学図書館池田家文庫には、太田牛一自筆の『信長記』十五巻十五冊(貴-48)があり、巻九を含む。