豊臣秀吉の一級資料を読む · 01

秀吉は岩付の萩に何を残したか——凱陣の終わりに詠んだ歌

小田原から奥羽へ進んだ天正十八年の長い旅。その帰路、太田牛一は岩付の萩と一首の歌を書き留めました。戦勝の列からふと離れ、花を見て都を思う秀吉が現れます。

今回の一節の新規現代語訳

さて、凱陣の途中、武蔵国の岩付で、名高い萩をご覧になりました。
関白秀吉公は、その場で一首詠みました。
この名残は、花の尽きる枝に残してゆくのだろうか。
花の盛りを後にして、都へ向かう道で。

『大かうさまくんきのうち』終盤、小田原・奥羽の陣からの帰路を記す段の岩付記事。直後には、九月一日に聚楽第へ帰着したことが続きます。

原文

さるほどに、御かいちんの時、武蔵の岩付にて、名にし負ふ萩を御一覧ありて、
関白秀吉公、当座を遊ばしける。
名残をば 尽きる枝にや 残すらん
花の盛りを 捨つる都路

『大かうさまくんきのうち』終盤、岩付の四行。慶應義塾大学メディアセンター所蔵、請求記号132X@27@1、全158画像中155画像。読みやすさのため漢字と句読点を補いました。

語句の注

  • 御かいちん
    「御凱陣」。戦いに勝ち、軍勢が帰ることです。敬語を重ね、秀吉側から帰路を眺めています。
  • 岩付
    武蔵国岩付。現在のさいたま市岩槻区に当たります。秀吉は奥羽から戻る途中で立ち寄りました。
  • 名にし負ふ
    名高い、評判になっているという言い方です。萩は土地で知られた眺めとして登場します。
  • 当座
    その場ですぐに詠むこと。前もって用意した歌ではなく、目の前の景色に応じた歌として語られています。
  • 都路
    都へ通じる道。岩付を離れ、聚楽第へ戻る向きが歌の結びに置かれています。

岩付で行軍の足が止まる

天正十八年、秀吉は小田原から関東、奥羽へと進みました。城が落ちます。大名が出頭します。所領の扱いも決まります。長い移動でした。

ところが帰路の岩付では、記事の調子が変わります。秀吉が見たのは萩です。それも「名にし負ふ萩」とあります。名所として知られていたのでしょう。牛一は軍勢の数も、宿所の造りも書きません。花を見たことと、その場で歌を詠んだことだけを選びました。

短い場面です。だから目に留まります。戦勝の記録が続いた末に、秋の花が一度だけ前へ出ます。秀吉は命令を出していません。誰かを褒めてもいません。咲いている萩を見て、立ち去る名残を歌っています。

「御凱陣」と書いた側から読む

冒頭の「御かいちん」には注意が要ります。単なる帰宅ではありません。勝って帰る軍勢です。しかも「御」が付きます。牛一は秀吉を敬う言葉で進めています。

この立場を消すと、記事は旅先の風流話だけになります。しかし岩付へ来た秀吉は、観光客ではありません。北条氏を滅ぼし、東国の大名を従わせた帰路にいました。直前まで各地の処置が続いています。花見と権力は離れていません。

だからといって、歌を偽りの飾りだと決めることもできません。牛一は軍事と和歌を同じ人物の行いとして並べました。征服者であり、花を愛でる関白でもある。どちらかを消せば、書かれた秀吉像より単純になります。

萩は盛りなのに、歌は終わりを詠む

萩は秋の七草の一つです。細い枝に小さな花が連なり、盛りを過ぎれば散ります。松のような永遠の象徴ではありません。季節が移るたび、姿が変わります。

秀吉の歌には「尽きる枝」があります。いま目の前では咲いているのに、花が終わる枝を先に思っています。次に「残す」が来ます。残るのは花なのか。旅の名残なのか。読む側は立ち止まります。

もう一つの動詞は「捨つる」です。花の盛りを置いてゆく。強い言い方です。秀吉は花が終わるまで滞在できません。都へ向かうからです。咲き続ける萩と、先を急ぐ旅人。二つの時間が別れます。

勝利の余韻も重なったかもしれません。ただし、そこまで原文は言いません。萩の盛りを天下統一の完成へ置き換える読み方もできますが、断定は避けます。まず残るのは、去る者と残される花の関係です。

都へ向く最後の一語

歌の結びは「都路」です。行き先だけなら「都」で足ります。牛一が写した歌には「路」があります。まだ移動の途中です。

岩付から都へ向かう道を思えば、花は背後へ回ります。秀吉の視線も二つに分かれます。振り返れば萩。前には都。名残という言葉は、その間に置かれています。

直後の記事には、九月一日に聚楽第へ帰ったとあります。そこで長い遠征が閉じます。岩付の歌は、その一歩手前です。帰着を祝う文ではなく、まだ道にいる人の歌として読むと、名残の重さがよく伝わります。

太田牛一の自筆本でも、出来事そのものではない

慶應義塾大学が所蔵する本は、太田牛一の自筆とされています。牛一は信長と秀吉に仕えました。後世の作者が名場面を膨らませた作品とは、出来事への距離が違います。

ただし、自筆だから無条件に事実になるわけではありません。目の前で筆記したとは書かれていません。歌を誰から聞いたのか。いつ文にしたのか。引用した四行だけでは分かりません。

言えるのは、牛一が秀吉の作としてこの歌を記したことです。「秀吉は一字一句こう口にした」と断言するには足りません。書き手が近いことと、速記録であることは別です。

原典を尊重するとは、何でも信じることではありません。書いてある範囲を守ることです。牛一が付けた場所、肩書、季節の景色、歌。そこまでは丁寧に受け取ります。伝わり方が不明な部分は、不明のまま残します。

別の記録と重なるのはどこまでか

さいたま市の歴史資料では、岩付城で萩を見た秀吉の話を『高力系図』とも比べています。そちらには、高力清長が秀吉をもてなし、秀吉が庭の萩を見て和歌を詠み、清長へ与えたとあります。

二つの記録には重なる部分があります。場所は岩付です。花は萩です。秀吉が歌を詠みます。だから、岩付の萩と秀吉の歌を結ぶ伝承が一冊だけに孤立しているわけではありません。

一方で、同じ文章ではありません。牛一の四行には、清長へ歌を与えたとは書かれていません。『高力系図』の記述だけを使って、牛一の空白を埋めるべきではないでしょう。重なる所と違う所を分けておけば、二つの資料を無理に一つへ縫い合わせずに済みます。

一首から秀吉の性格を決めない

萩を見て即興で詠む秀吉は、教養を備えた人物として描かれています。関白という肩書にもふさわしい場面です。地方の名所を知り、季節に応じて歌を返す。牛一は、そうした振る舞いを選んで残しました。

しかし「秀吉は繊細な人だった」と一首だけで決めることはできません。反対に、戦いの苛烈さを理由に歌を無価値とするのも早計です。歴史上の人物には、互いに収まりの悪い行いが同居します。

権力と文化も分けきれません。歌を詠めることは、個人の感性だけでなく、統治者として身につけた表現でもあります。牛一が関白の肩書を置いた直後に和歌を載せた点は大切です。軍勢を率いた力と、都の文化に通じる姿が、短い記事の中で隣り合っています。

逸話に住所を戻す

有名人の逸話は、出典を離れると便利な性格診断になります。「秀吉は花を愛した」。それだけなら覚えやすいでしょう。けれども、原典へ戻ると景色が細かくなります。

天正十八年の凱陣です。場所は武蔵の岩付。花は萩。秀吉は関白と呼ばれ、その場で歌を詠みます。次には聚楽第への帰着が来ます。これが逸話の住所です。

住所が分かれば、何を語れるかも決まります。岩付での休息。秋の名所。都へ帰る向き。牛一が選んだ秀吉の姿。反対に、歌が伝わった経路や、周囲にいた全員の反応は分かりません。

萩の枝には花が残りました。秀吉は都へ向かいました。牛一は、その別れを四行に収めました。大きな遠征の終わりに残ったのは、勝鬨ではなく、咲き終わる花を惜しむ歌でした。

出典

太田牛一『大かうさまくんきのうち』終盤、小田原・奥羽の陣から帰る途中の岩付記事。底本は慶應義塾大学メディアセンター所蔵本、請求記号132X@27@1、全158画像中155画像。同館は慶長年間の太田牛一自筆本としている。帰路の日程と『高力系図』の記述は、さいたま市「天下人・秀吉がやってきた」六〜七頁でも確かめた。