『司馬法』を読む · 05

功を誇らない士をなぜ貴ぶのか——『司馬法』天子之義

『司馬法』は、まず国での振る舞いと軍中での振る舞いを分けます。そのうえで、手柄を自分から言い立てない士を「上の器」と呼びます。謙虚さだけの話ではありません。

今日の一節を現代語で読む

昔は、国での振る舞いを軍中へ持ち込まず、軍中での振る舞いを国へ持ち込みませんでした。
そのため、徳と義が互いの持ち場を越えませんでした。
上に立つ者は、功績を自分から誇らない士を貴びました。誇らない士は、上に立つ者が用いるに足る人でした。
功を誇らなければ、見返りを求めません。求めなければ、人と争いません。

『司馬法』第二篇「天子之義」。民を教え、身分と働きを整えたのち、国と軍で振る舞いを分ける段です。この直後には、国と軍で事情を正しく聞き取る話が続きます。

原文

古者、國容不入軍、軍容不入國。
故德義不相踰。
上貴不伐之士、不伐之士、上之器也。
苟不伐則無求、無求則不爭。

『司馬法』第二篇「天子之義」の四行。空白と句読点を除いて四十三字。汪桓訂正『標題武経七書全文』巻三、第二冊の画像六から七にまたがる箇所で確認し、句読点と改行を整えました。

語句の注

  • 国容・軍容
    国と軍で、それぞれふさわしいとされた身なりや振る舞いです。ここでは両者を混ぜないことが先に語られます。
  • 徳義
    身につけた徳と、なすべき道理です。「相踰えず」は、互いの持ち場を越えないという意味です。
  • 不伐
    自分の功を言い立てないことです。ここでの「伐」は敵を討つ意味ではありません。
  • 上の器
    上に立つ者が大事な役目へ用いられる人物です。道具のように心がない、という意味ではありません。
  • 無求・不争
    見返りを求めず、他人と功を争わないことです。誇る、求める、争うという順を逆から止めます。

国の姿と軍の姿を混ぜない

最初の言葉は、士の性格ではありません。国と軍の境目です。国には国の振る舞いがあります。軍には軍の振る舞いがあります。両方を混ぜません。

国では、身分や礼儀に従って話し合い、日々の務めを進めます。軍中では、危険が迫ります。命令を急いで伝えなければならない時もあります。武具を着けたまま、平時と違う礼法で動く場合もあります。

どちらか一方だけを善いと決める話ではありません。場所が変われば、ふさわしい姿も変わります。軍の荒々しさを国中へ広げれば、平時の暮らしが崩れます。反対に、国での緩やかな作法を戦場へそのまま運べば、命令が遅れるでしょう。

境目があるから、徳と義も互いを越えません。何を大切にするか。その答えは同じでも、行い方は同じとは限りません。

「伐」は敵を討つことではない

「不伐之士」を、戦わない士と読むのは無理があります。この「伐」は、自分の功績を言い立てることです。手柄を誇り、周囲へ認めさせようとする振る舞いを指します。

功そのものを否定してはいません。士は役目を果たしています。成果もあったのでしょう。だからこそ、誇るかどうかが問題になります。

自分から言わなければ、誰にも知られないかもしれません。そんな不安は残ります。それでも『司馬法』は、まず自分の口で手柄を大きくしないよう求めます。

謙虚な性格を褒めるだけではありません。軍功は、地位や褒賞につながります。どの功が大きいかで、人の順番も変わります。自慢は、ただの話し癖では済みません。

功を言い立てなければ、何を求めずに済むか

終わりの二句は短いものです。誇らなければ、求めない。求めなければ、争わない。この順で進みます。

最初は言葉です。「自分が勝たせた」「自分が先に進んだ」「自分の働きが最も大きい」。繰り返すうちに、その言葉は要求へ変わります。

褒賞を増やせ。位を上げよ。ほかの者より先に扱え。求める物がはっきりすると、次には相手が生まれます。功を分け合う仲間です。褒賞を決める上役です。

争いは、敵との間だけに起こるのではありません。戦いが終わった側にも残ります。誰がどれだけ働いたか。誰が多く受け取るか。勝ったあとにも火種はあります。

そこで最初の言葉を抑えます。功を消すのではありません。自分の取り分を増やす運動へ変えないのです。

褒賞より先に、聞き方を整える

引用の直後には、国で話を聞けば事情を得られ、軍で話を聞けば適切なところを得られる、と続きます。さらに、能力が互いを覆い隠さないと述べます。

功を誇る声だけが大きければ、ほかの働きは聞こえません。後ろで兵糧を運んだ者。命令を正しく伝えた者。崩れそうな列を支えた者。目立たない務めもあります。

誰に褒賞を与えるかは、声の大きさだけでは決められません。何が起きたのか。誰が何をしたのか。国と軍、それぞれの場で聞き取る必要があります。

だから「不伐」は、評価をなくす教えではありません。本人の宣伝と、上に立つ者の判断を分けます。判断する側にも責任が残ります。

誇らない者を見落とせば、制度の失敗です。沈黙していれば報われる、と本人へ押しつけるだけでは足りません。聞く側が探し出さなければなりません。

褒賞を受けることまでは拒まない

「求めない」と「受け取らない」は別です。上から与えられた褒賞を断れ、と四行にはありません。自分から要求し、他人と取り合う動きを止めています。

働きに報いる責任は、上に立つ者の側へ残ります。功を確かめる。人前で認める。ふさわしい物を与える。その手順を怠れば、不伐の士ばかりが損をします。

反対に、自分で褒賞を決め始めれば、命令の順が崩れます。功を立てた人ほど、強い要求を通せるからです。やがて軍中の名声が、国での地位を押し動かします。

ここでも国容と軍容の境目が戻ってきます。軍で得た功を、国でどう扱うか。決める役目まで本人へ渡しません。評価と要求を分けます。

短い言葉です。しかし、褒賞の受け手と決め手を分ける筋は通っています。誇らない士だけでなく、よく聞いて報いる上役も必要です。

「器」と呼ばれる人

不伐の士は「上の器」と呼ばれます。現代語で器と言われると、道具として扱われる印象もあります。ここでは、大きな役目を受けられる力量を備えた人と読めます。

上に立つ者が用いる、という上下関係は明らかです。対等な仲間を論じた言葉ではありません。君主や指揮官が、人を選び、役目へ置く世界です。

それでも、従順なら誰でもよいとは書かれていません。前には徳と義があります。後ろには事情を正しく聞く話があります。力だけでは足りません。

功を持ちながら、功に飲まれない。その人なら、大きな役目を預けても、役目を私物にしにくいでしょう。「器」には、そんな信頼も含まれています。

報告と自慢は分けて考える

功を誇るなと言われても、事実を報告しないわけにはいきません。失った兵の数。届いた兵糧。守った場所。命令が通ったかどうか。黙れば危険です。

正確な報告と、自分を大きく見せる話は違います。報告には、失敗も含まれます。自慢は、都合のよい成果だけを選びます。

また、口数が少なければ正直とも限りません。失敗を隠すために黙る人もいます。『司馬法』の四行だけでは、誠実な報告を見分ける方法までは分かりません。

直後に「聴」が置かれる理由は、ここにもあるでしょう。士の側には節度が要ります。上に立つ者には、よく聞く務めがあります。片方だけでは成り立ちません。

四行から言えないこと

軍中の振る舞いが、国での振る舞いより劣るとは書かれていません。置く場所を分けています。

褒賞や昇進をなくせ、とも言いません。功を自分から売り込み、要求へ変える道を戒めます。

誇らない士なら、必ず有能だとも限りません。学び、技量、命令への理解は、別に確かめる必要があります。

特定の将軍を記録した一節でもありません。「古は」と始まり、あるべき昔の姿を語ります。誰かの実話へ結びつける根拠はありません。

現代の会社へそのまま移す標語にもできません。ここで語られるのは、君主、士、国、軍という古代の秩序です。

兵の腕前だけを語る段ではない

兵法書と聞けば、陣形や武器を思い浮かべます。『司馬法』にも、兵や車、進退を論じる箇所があります。けれども「天子之義」では、人を用いる前の教えが長く続きます。

身分を乱さない。能力を隠さない。力で人を犯さない。そのような順序を整えてから、民を選び、役目に就けます。

武器を持たせれば、兵になるわけではありません。命令を聞けること。自分の力を使う場所が分かること。功を得たあと、仲間と争わないこと。そこまで含めて、人を軍へ入れます。

戦いの前から軍紀は始まっています。さらに、戦いのあとまで続きます。不伐の士は、その両方をつなぐ人物です。

孫子と並べると何が違うか

『孫子』には、敵と己を知ること、勝てない形を先に作ること、戦いを長引かせないことなどが説かれます。勝つ条件を細かく分ける書です。

『司馬法』は、力を使う秩序へ多くの言葉を割きます。軍と国をどう分けるのか。軍功を持つ者をどう扱うのか。武の働きが国全体を覆わないための境目を考えます。

どちらも兵法です。ただし、同じ問いを繰り返してはいません。七書を並べて読む意味は、違いを消さないところにあります。

今回の四行には、敵の姿が出てきません。地形も兵数もありません。それでも軍を治める話になっています。味方の功が、新しい争いへ変わる前に止めるからです。

誇らない士から始まる

国と軍を分ける。徳と義の持ち場を守る。功を誇らない。見返りを求めない。人と争わない。四行は、その順で進みます。

ただ静かにしていればよい、という教えではありません。功績を正しく聞き取る仕組みが要ります。働きを記録し、褒賞を決める人も要ります。

士の側に求められるのは、自分の功を武器にしないことです。上に立つ者へ求められるのは、声の大きさに頼らず、働きを見分けることです。

戦いが終わっても、争いの種は消えません。功の取り分をめぐって、味方同士が向き合うことがあります。『司馬法』は、その争いを言葉の入口で止めようとしました。

不伐の士は、功がない人ではありません。功を持ちながら、功に使われない人です。だからこそ、上に立つ者が用いるに足る「器」と呼ばれました。

出典

『司馬法』第二篇「天子之義」。原文は伝来本文により確認した。和刻本には、汪桓訂正『標題武経七書全文』巻一〜七(大坂・文金堂、江戸末期)がある。『司馬法』は巻三。早稲田大学図書館蔵、請求記号文庫31 E1920。引用箇所は第二冊の画像六から七にまたがる。