信長公記を読む · 09

信長は髑髏杯で酒を飲んだのか——『信長公記』の薄濃

信長が朝倉義景・浅井久政・浅井長政の髑髏を杯にした、という話はよく知られています。ところが『信長公記』巻七の本文に「杯」の字はありません。首を薄濃にし、御肴として酒宴に出した、と記されています。

今回の一節の現代語訳

一つ、朝倉左京大夫義景の首。
一つ、浅井下野の首。
一つ、浅井備前の首。
以上の三つを薄濃にし、供饗の台に据え置き、御肴として出して酒宴となった。

『信長公記』巻七、第一「義景浅井下野浅井備前三人首御看之事」。天正二年正月朔日の酒宴で、他国衆が退出し、信長の馬廻だけが残った後の段です。この後には、謡と遊興を尽くして信長が喜んだとする記述が続きます。

原文

一朝倉左京大夫義景首、
一浅井下野首、
一浅井備前首、
已上三ツ薄濃にして、公卿に居置、御肴に出され候て御酒宴。

『信長公記』巻七、第一「義景浅井下野浅井備前三人首御看之事」の四行、句読点と空白を除いて四十七字です。甫喜山景雄刊『信長公記』巻之上(明治十四年)、国立国会図書館の画像四十六コマ左頁で確認し、字体・句読点・改行を整えました。「公卿」は供饗の場の台として現代語訳しました。

語句の注

  • 朝倉左京大夫義景
    朝倉義景です。本文では官途名を添えて記します。
  • 浅井下野
    浅井久政を官途名で呼んだものです。
  • 浅井備前
    浅井長政を官途名で呼んだものです。
  • 薄濃
    首へ施した装飾的な仕立てを指す語です。選んだ本文は材料や工程を細かく説明しません。
  • 御肴
    酒席に添えるものです。ここでは三人の首が酒宴へ出されたことを述べますが、飲む器だったとは書いていません。

原文にあるのは「首」「薄濃」「御肴」です

四行で最初に目へ入るのは、三人の名です。一人ずつ「首」と続きます。最後に三つをまとめ、「薄濃」にして御肴へ出したと結びます。

「杯」はありません。

「盃」もありません。「髑髏」という名詞さえ使わず、三度とも「首」です。髑髏杯という言い方は、本文の外で形を補ったものです。

だからといって、穏やかな場面へ変わるわけではありません。討ち取った三人の首を加工し、酒宴に出したのです。十分に異様です。ただし、異様さを強めるために器の用途まで付け足す必要はありません。

正月の宴には二つの顔があります

巻七は天正二年の正月朔日から始まります。京都や近国から来た者たちが岐阜で信長へ出仕し、酒を受けます。まずは新年の対外的な儀礼です。

その後、他国衆は退出します。

残ったのは馬廻です。信長の近くで仕える人びとだけの場へ変わり、そこで「古今承り及ばざる珍奇の御肴」が出ます。選んだ四行は、その中身を一つずつ挙げます。

誰が見たかを分けることは大切です。新年に訪れた全員の前へ三つを並べた、と本文は語りません。外から来た者が退出した後、馬廻だけになった酒席です。

三人の名は同じ形では書かれません

朝倉義景だけは実名まであります。「朝倉左京大夫義景首」です。浅井久政と長政は、「浅井下野」「浅井備前」と官途名で記されます。

書き分けがあります。

けれども、三人の身元が曖昧という意味ではありません。節の見出しでも義景、浅井下野、浅井備前の三人と数えています。前年の北国で討ち取らせた首だという前置きもあります。

現代語では久政・長政の名を補いたくなりますが、原文欄では補いません。本文が官途名で呼ぶ調子を残します。注で人物を結びつける方が、原文と説明を混ぜずに済みます。

「薄濃」は飲む道具の名前ではありません

薄濃は、三つの首へ施した仕立てを述べる語です。色や装飾に関わる言葉として読まれます。少なくとも、杯や盃を指す名詞ではありません。

本文の動詞も確かめます。

薄濃にする。台に据え置く。御肴に出す。酒宴になる。この順です。「注いだ」「飲んだ」「杯を取った」に当たる動作はありません。

器なら、酒を受ける内側や、手に取って口へ運ぶ場面が問題になります。四十七字はそこへ進みません。三つを並べ、見せ、酒席の趣向として扱った所で終わります。

「御肴」を食べ物だけに狭めない

現代の「肴」は、酒と一緒に食べる料理を思わせます。しかし酒席の肴には、興を添える物事という幅があります。謡や見世物の話でも使われます。

ここでは食べません。

首を食べたとも、首へ酒を入れたとも書かれていません。酒宴に添えられた「珍奇」の品です。現代語訳で「酒の肴」とだけ書くと、食べ物の意味へ引かれすぎるため、「酒席の肴」と受け取る必要があります。

御肴の次には御酒宴が続きます。首と酒が同じ場にあった事実は動きません。問題は、首がどのような道具として使われたかです。そこだけは本文が決めていません。

髑髏杯という一語が足したもの

「髑髏杯」と呼ぶと、頭蓋の上部を切り、内側へ酒を注ぎ、口を付けて飲む器が思い浮かびます。一語の中に、形、用途、動作がそろっています。

原文には、その三つがありません。

首を薄濃にしたことはあります。台に置いたこともあります。御肴として酒宴に出したこともあります。しかし、杯の形に加工したとはありません。酒を注いだとも、信長がそこから飲んだともありません。

通説を退ける時も慎重さが要ります。杯ではなかったと絶対に証明するのではありません。採用した版のこの箇所は、杯だったと確定できる語を持たない。言えるのは、そこまでです。

記録者は酒宴をめでたい出来事として書きます

四行の後では、謡と遊興が続き、信長が存分に喜んだと記されます。書き手は、現代の読者が感じる嫌悪を代弁しません。

むしろ祝宴です。

前年の戦いで朝倉・浅井勢を滅ぼした結果を、近習たちの前へ置きます。敵対した三人の死を、勝利の記念として扱った場面です。

ただし、書き手がめでたいとしたから、当時の全員が同じ感情だったとは限りません。出席者の日記や発言は引用箇所にありません。語り手の評価と、座にいた一人ひとりの内心は分けます。

敬意か侮辱かを四行だけで決めない

薄濃を、強敵への敬意だったと説明する話があります。反対に、敵を死後まで辱める行為だったと読む話もあります。

どちらも意図を補っています。

本文は、信長が三人へ語りかけた言葉を載せません。供養、鎮魂、復讐、威嚇という目的語もありません。酒宴を喜んだとは書きますが、なぜこの仕立てを選んだのかは説明しません。

行為の評価を考えることはできます。しかし、一次史料の字句と後世の解釈を同じ文に押し込まない方が安全です。まず、誰の首を、どの場で、どう出したかを確かめます。

四行から言えないこと

信長が三つの首から酒を飲んだとは言えません。杯、酒を注ぐ動作、口を付ける動作がないからです。

三人への敬意を表したとも断定できません。信長の説明が記録されていません。

新年の出仕者全員へ見せたとも言えません。他国衆が退出した後、馬廻だけの席へ移ったとあります。

また、戦国時代に広く行われた一般的な習俗だとも言えません。一件の記録から頻度や地域差を決めることはできません。

怪談よりも、語の順序を読む

髑髏杯という言葉は強烈です。覚えやすく、映像にもなります。そのため、原文より先に通説を知ると、四行のどこにもない杯が見えてしまいます。

いったん、言葉へ戻ります。

三人の首。薄濃。台へ据える。御肴。酒宴。ここまでは書いてあります。杯へ加工する。酒を注ぐ。信長が飲む。そこから先は書いてありません。

『信長公記』の記録だけでも、場面は十分に厳しいものです。だからこそ、余計な一語を足さずに読む価値があります。恐ろしさを弱めるためではありません。史料が語る異様さと、後世が作った映像を分けるためです。

この読み方は、通説を笑うためのものでもありません。髑髏杯という像が広まった経路を調べる作業は、別に必要です。ここで行ったのは、その像を一次史料の四行へ戻して照らし合わせることです。杯という形と、そこから飲む動作は確認できません。一方、三人の首を装飾し、近習だけの宴に出した事実は残ります。削るべきなのは事件の重さではなく、史料にない小道具です。

出典

『信長公記』巻七、第一「義景浅井下野浅井備前三人首御看之事」。甫喜山景雄刊『信長公記』巻之上(明治十四年)、国立国会図書館デジタルコレクション・画像四十六コマ左頁、巻七冒頭により、採用した字句と前後を確認した。本文の日付は天正二年正月朔日。人物名の同定は同節の見出しと本文による。書物全体については『信長公記』の原典ガイドを参照。